はじめての方へ

 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
旧約聖書イザヤ書より

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 教会には、いろんな人たちが集まっています。お年寄り、リタイアした人、車椅子の人、体や心を病んでおられる人、幼児、小、中、高校生、浪人生、大学生、社会人、就活中の方、専業主婦、外国人などなど。お互いに利害関係がありません。
 また、清廉潔白な人ではなく、神様の前に自分自身を小さく、弱い者だと自覚している人たちです。

 私たちは聖書に書かれている神様を礼拝します。聖書に示された神様は、この世を造られ、私たちを正しい道に導いてくださる神様です。その神様をほめたたえ、神様のことばを聞きます。
 また、イエス・キリストが私たちを愛されたように、私たちもお互いに愛し合って生きることを学び、実践する所です。楽しいことがたくさんあります。


 あなたも招かれています。あなたは今、落ち込んでいませんか。もっと豊かな人生を送りたいと願っていませんか。一度古河教会を訪ねてみてください。きっと安らぎと希望が見つかります。あなたのお越しを心からお待ちしております。


主任牧師 長谷川 望

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私が教会に来るようになったきっかけ

 どのようにして教会に来て、イエス様を信じるようになったか…教会に来ている人たちの中でも理由は様々あります。ここでは幾人かの人のお話をご紹介します。

石津大次朗/社会人:システムエンジニア

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教会に来る前の私は神様なんているはずないと思っていました。神がいるなら、なぜ世界中に飢えや戦争など理不尽なことがあるのだと思っていました。また、人間の生きる意味とは何かと真剣に悩んでいました。
 ある時、作家の三浦綾子さんの小説を読みました。三浦さんはクリスチャンでした。私は、三浦さんの信じるキリスト教を知りたいと思い、母と教会に行くことにしました。
 それからしばらく教会に通うことによって、たくさんの教会の人と話し、聖書を読み進めていくうちに聖書に書いてある「救い」の確かさ、イエス様の十字架の意味がわかり、人間の罪深さが痛いほどわかりました。
 しかし、そんな罪深い私たちさえも「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たのです。」(ヨハネの福音書12章47節)という御言葉にあるように、救って下さる約束をした神様の恵みにただ驚き、感謝するばかりでした。
 それから聖書を毎日読み続けるようになり、改めて聖書には真理が書いてあると強く思うようになりました。そしてイエス様を救い主と信じ、洗礼を受けました。
 人間の生きる意味を追い求めていた私ですが、聖書を読むことで人間の生きる意味についての答えを知ることができました。神様と共にさらに生きることへの喜びを持って歩んで行きたいと思います。
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇37章5節)

小島文子/自営業:美容室経営
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青ぶどう 洗礼の水の あたたかし 

 私がはじめて神様を知ったのは、「婦人の友」の愛読者の集まりの友の会に入会しているクリスチャンの友人に出会った事がきっかけです。その頃の私は、この世に神様などいないと思っていました。そんな私に、その友人は神について一つ一つ丁寧に説明して下さいました。その中で、この天地万物をお造りになられた方が神様、そしてイエス・キリストである事を教えられました。私はこの自然界や小宇宙と言われる人間の肉体などを神技でなくだれが出来るのかと常に思っていました。そのため友人の言葉をすぐに理解でき、神様の存在を信じ、神は一つ、イエス・キリスト以外にいないと思えるようになりました。
 私はあることで悩んでいましたが、なかなか解決は得られませんでした。人の力に限界がある事を知った私は、神様に祈る以外になすべが分からず、祈ってみようとその日から毎晩祈りようになりました。振り返ってみると私の祈りは一つ一つ守られて来ている事を思い、「神様ありがとうございます」と感謝の祈りとなり、いつからか「一番良い方法で私に受洗の道をつけて下さい。」と祈る様になっていました。
 一方で、洗礼を受ける事を考えると教会に行っていない夫に反対されるのではないかと思い浮かび踏みとどまっていました。ある日、礼拝堂から出て来た私の肩を牧師夫人が引き寄せて声をかけてくださいました。「小島さん、もうそろそろ受洗を考えてみませんか。洗礼を受けたからと言って生活は何も変えなくていいのですから。」私はその言葉に押し出され勇気を出して夫に話しました。夫は驚いた様子もなく「信仰は個人の自由だからいいよ。でも他の宗教なら反対するけどな。」と少しのためらいもなく言いました。その思いの落差に私の方が唖然としてしまいました。その後の夫は教会に行くたびに快く送り出してくれました。夫の態度を見るにつけ今思うと夫の方へ先に神の働きがあったのかと感謝せずにはいられません。
 人間は初めから罪を犯す者としてこの世に生まれる事を余儀なくされた事、その人間の罪全部を背負って私達の身代わりとして十字架にかかって下さった事などを学び、洗礼を受けるに至りました。
 現在では、私の限りある表現力ではとても伝え切れぬ程の神様の深い深い愛をひしひしと感じつつ、毎日を過ごしています。

岡村みむね/高校生
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 私は小さい時から教会に行っていましたが、教会に行くのは友達と遊ぶことだけが目的でした。中学に入って、人間関係で悩むようになり人の目を気にしながら毎日を過ごしていました。その頃から私は少しずつ聖書を読むようになり、自分はどう生きればよいのか、どうすればこの恐れや不安がなくなるのかを考えながら、聖書に答えを求めるようになりましたが、聖書のことはよく分かりませんでした。
 ある日、友人たちといざこざが起こり、それをきっかけに私と友人たちとの関係が悪くなりました。相手のことを憎んだりもしました。相手のことを許すことができず、どうすればいいか分からなくなった時、自分の名前が使われている、ある祈りの言葉が、ぱっと頭に浮かんできました。
 「どうか、神様の御旨のとおりになりますように」この言葉によって自分自身のせいだったことに気づかされました。そして、「私の思いではなく、神様の御旨の通りに、わたしを導いて下さい」と祈りました。すると次の日に友人と仲直りをすることができました。このことで、私は生まれて初めて心の底から神さまに感謝しました。神さまは本当にいると確信できた出来事でした。
 それから私は自分を導いていただけるように祈るようになりなりました。その中で私がここまで生きることができたのは全て神様のおかげだということを知り、神様を信じるようになりました。
 でも洗礼を受けることを決心できませんでした。教会のキャンプに行ったとき神様に守られている喜びを感じ、神様の素晴らしさを知りました。今まで、自分の中で理解できずにいたイエス様の十字架の意味も知ることができました。メッセージの中で、「そのままで洗礼を受けることをイエス様は望んでいて、あなたをずっと待っているよ」という言葉を聞いたときに、私は洗礼を受けることを決心しました。私はどこかで、「もっとしっかり信仰を持ってなきゃだめだ」「こんな自分じゃだめだ」という思いを抱えていて、洗礼を受けることができなかったのでずが、「このままでいいんだ、本当にこのままで受け入れてもらえるんだ」と気づかされました。
 そして、洗礼を受けることを決心することができました。私はまだまだ自分のしたくないことばかりしているけど、今を受け入れていただいて、これからもっともっと変えられていきたいです。