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「アローン?」男の問いに、私はとっさに、「ちがう」と、嘘をつこうとした。こんなシチュエーション。ろくなことにはならないだろう。彼がどんな男か、知る術もないが、好感が持てる相手ではなかった。生理的に受けつけない。動物的な勘のようなものが、働く。関わりたく ない。けれど私が口を開く前に、男がまくしたてた。「今日の朝、ひとり桟橋でサンドウィッチを食べていましたね。きのうの夜も、ひとりでレストランにいるのを、見かけましたよ。ひとり旅なのですね」
男は、まるで私が嘘を言うのを見越していたかのようだった。そして、私が嘘を言えないように、作戦を立ててきたかのようだった。今、その結果を、楽しそうに待っている。
「イエス、アローン」
私は、男が考えた、筋書き通りのセリフを口にしなければならなかった。今度は彼が、彼のセリフを言う番だ。男は満足そうに、笑みを浮かべながら、ゆっくり言った。
「私もひとりです。お話しましょう」
マレーシアのメインランドから、スピード・ボートで二時間。私はきのう、この島にやってきた。南シナ海に浮かぶこの島は、いわゆるリゾート・アイランド。寒い国から来た観光客が多く集まるところだ。東洋人の姿も見える。彼らはシンガポールからきた学生たち。スキューバ・ダイビングをしに来たのだろう。海の中の様子を、興奮気味に話している。
友達同志で、ファミリーで、カップルで。みんな気のおけない仲間と、この南の島の休日を共有し、楽しんでいる。
ひとりで来ている私が浮かないようにと、一番小さな村を、滞在先に選んだ。けれど、青い海に囲まれたこの島は、どこも華やかな雰囲気に包まれていた。ひとりぼんやり海岸に座る私は、「場違い」という意味で、目立っていたに違いない。
男は別に、特に私を気にいったわけではないのだろう。ただ、ひとりでこのビーチにいる物好きな女といえ
ば、私しかいなかっただけなのだ。
「フロム ジャパン?」
「イエス」
「ナイス! アイ ラブ ジャパーン!」
私が男の問いを肯定すると、男は日本への、日本女性へのありとあらゆる賛辞を、しゃべり続けた。日本人は色が白い。黒い髪も、黒い瞳も美しい。控え目で親切で、みんな美人だ。日本文化は素晴らしい文化のひとつで、日本のテクノロジーは世界一・・・。
私は、心地いい南風に、突如割り込んできたこの言葉の洪水に、本当は、耳をふさぎたかった。
そして次に、私の身上調査が始まる。年はいくつなのか。結婚はしているのか、していないのか。どんな仕事を、しているのか。そして、自分のような男は好きかどうか。
私は心の中で、あぁ、とためいきをついた。やっぱり、その種類の男。私は、真実と嘘とを折混ぜまがら、いいかげんに返事をした。関わりたくない。けれど男は、私の心をさえぎるようにしゃべり続ける。
「ランチを御馳走させてください」
「いいえ、結構です」
「なぜですか」
「理由がありません」
「私たちが出逢ったことが、理由になりませんか」
「いいえ」
「なぜですか」
話しは、つかない。堂々巡りだ。男は話をはぐらかすように、Why?を繰り返す。先の見えない迷路に、迷いこんでしまったような会話。
あぁ・・・。私はまた、心の中で深いためいきをついてしまった。そして、無駄だと知りつつ、男が大好きだという「日本」をも、持ち出した。
「日本では、女性が初対面の男性と食事をすることは、大変いけないことなのです。これ は、とても日本的な考え方です。昔からの習慣なのです」
私は、でたらめを言った。けれど、男のほうが一枚うわてだった。やはり満足そうに、笑みを浮かべながら、ゆっくりとした口調で言い切った。
「知っています」
男は、私の苦しい言い訳すら利用した。
「でもここは、日本ではありません。大丈夫です。さあ、レストランに行きましょう」
私が、もしも男だったら、今この時間、白いビーチでくつろげたのに。私は、恨めしい気持ちになった。これは私だけの問題ではなく、一人で旅行する女性なら、一度は思う事 だろう。
男は、貴重品の心配だけでいい。ある日本人女性が、言っていたのを思い出す。女がひとりで旅をするなんて、何が目的なのか、と言われたこともある。
知らない世界を見てみたい。美しいものや、そうでないものや、珍しいものや、本物を見てみたい。それだけの、ことなのに。
私が男だったら、話題にもならないこと。「ひとりで行動する」こと。女には許されないことが、この世にあるのだと悲しくなる。
私は男と一緒に、レストランに続く海沿いの一本道を、歩くことになってしまった。自分の意思とは違うことをしている、居心地の悪さ。いやなことを、いやだと言えない自分が、情けなかった。
「ここに、すこし座りましょう」
男は、私の気持ちなどおかまいなしに、さっき雑貨屋で買ったコーラを手渡しながら、言った。とても大きな岩の上に、私たちは腰をおろした。
青い南シナ海。照りつける正午の太陽。吹き抜ける南風で揺れる、ヤシの木陰。気もちのいいこの時間。私の目はまっすぐに、浜辺を歩く人達の姿を見ていた。
男は、相変わらずしゃべり続けている。黒い瞳がどうの、長い髪がどうの・・・。退屈な話題だ。
もともと英語はよくわからないし、積極的に聞く気もないものだから、男の声は、どんどん後ろに遠ざかって、全く気にならなくなった。それに替わって、波の音と波打ち際ではしゃぐ人達の声が、私の周りを支配し始める。島の力が私を包む。頭の中に、海が、広がっていく。
「なにを考えているのですか? 教えて下さい」
目線で訴えてくる男。私は、にこりともせず、真顔で気のない返事をした。
「早く、お昼ごはんが食べたい」
これが、私の反撃だ。男は、妙な顔をした。
ボブ・マーレーがかかる、陽気なオープン・エアーのレストランで、私は「御馳走」を食べた。
目玉焼きがのった、辛いミー・ゴレン(マレー風やきそば)に、ピーナツ・ソースのサテ・アヤム(やきとり)、魚のフライにあんを掛けたもの。イスラムの国マレーシアでは割高感があるビールまで飲んでしまった。私が選んだ料理を、男はマレー料理は好きではないからと、一口も食べなかった。
「もったいない。こんなに、おいしいのに」
私は、日本語でつぶやくと、あとはただ、黙々と食べ続けた。男は、延々としゃべり続ける。
男は、今夜ディナーはどうかと、しつこい。けれど、私はもうこれ以上、この男のつまらない話題に、付き合う気はなかった。今夜は、同じホテルに泊まっている日本人と食事をする約束があるからと、嘘をついた。顔を合わせてはいなかったが、長期滞在している日本人がいることを、ホテルのスタッフに聞いて知っていた。
私は、男の「なぜですか」を、かわすことができた。やった!私は嬉しくなった。自分が結構しっかり者のような気になった。
男と別れ、午後をビーチでこっそり過ごしたあと、私はホテルに戻った。中庭に、この国で一般的で、人気のあるスポーツ、バトミントンのコートがあって、数人の青年とひとりの女性が汗を流している。見物人のひとりが私に近づき、ささやいた。
「彼女は、日本人だよ」
「え?」
私は、女性の顔を見て少し驚いた。彼女なら、すでに知っていた。けれど、私はてっきり、マレー人の少女だと思っていたのだ。
彼女はきのうの夜、薄暗いテラスにいた。古い木製の椅子に座り、そして、彼女の膝には、マレー人の青年がもたれかかっていた。彼女は、青年の髪を、優しくなでていた。
青い花がちりばめられた、白いコットンのワンピース。そして、そのワンピースの袖から伸びる細い腕。浅黒い肌と大きな瞳。小柄でほっそりした彼女は、少女に見えた。
熱い熱帯の夜。彼らの姿は美しい絵のようであり、艶めかしい幻影のようでもあった。月は、知らんふりしながら、遠くで照らしている。
マレーシアの田舎では、こんな場面に出くわした事は一度もなかった。厳しいイスラムの戒律。女性はみんな、控え目なのだ。若い男女が手をつないでいる姿さえ、私は、見たことがなかった。
私は、彼女は娼婦なのだろうか、と思った。そう思うと、ますます彼女の姿は小さく、そして、はかなく見えた。全ては、熱く黒い島の夜が私に見せた、幻だったのだ。
私は、こんにちは、と声をかけてみた。
「日本の方だったんですか」
彼女も少し驚いていた。私の姿は見かけていたが、きっと、シンガポール人だろうと思っていたのだそうだ。日本人と話すのは久しぶり、と嬉しそうに話す彼女は、少女ではなく、私と同年代の落ち着いた女性だった。
私たちは、近くのレストランで晩ごはんを食べる約束をした。私が、あの軟派男についた嘘が、真実になろうとしている。この島は、色々な魔法を使う。私も、とても嬉しくなった。
二時間後、私たちはまだ新しい、白とブルーのタイルが美しいレストランで、ナシ・チャンプルを食べた。ナシは「ごはん」。チャンプルは「混ぜる」を意味している。沖縄料理のチャンプルーや、日本語になっている「ちゃんぽ ん」の語源らしい。
その名の通りナシ・チャンプルはごはんの上にのった、辛い味付けの野菜や肉類を、「かき混ぜて」食べる庶民の食事で、メニューにはのっていない。けれど、もう長くこの島にいる彼女は、地元の人と同じように、このスペシャルメニューが頼めることを、知っていた。
「この島に来て、なにか気がつかなかった?」
彼女は一番に尋ね、そして私の返事を待たずに言った。
「この島には、犬が一匹もいないの。イスラム教だから」
そう言われてみれば、ここには、犬の姿は全くなかった。
彼女は、ふっとためいきをつき、それから気を取り直したように座り直すと、自分がなぜこの島にいるのかを、話し出す。
今から三年前。夏の休暇を利用して、この島にやって来たこと。そして、スキューバ・ダイビングをした時に、インストラクターである「彼」に出逢い、恋に落ちたこと。休みのたびに彼に逢うためこの島を訪れ、超長距離恋愛を続けていた彼女たちだったが、四ケ月前、両親を説得し、仕事もやめて、結婚するために、この島にやって来たこと。そして 安宿の一室で、同棲生活を始めていること。よくあるといえば、よくあるような、思い切ったといえば、思い切った話しのように、私には思えた。
そして今、彼女はここにいる。幸せになるために、ここに来た。
「結婚するためには、イスラム教を勉強しなければならないの。結構、大変なのよ」
諸々の手続きのために、メインランドに行くこともあるという。
「私、彼のおかあさんに、嫌われているの。結婚しないで一緒に住んでいるのが、気に入らないみたい。わかってるけど。でも今は、結婚は考えられない」
彼女は、出逢った夜と同じ、まるで少女のように見えた。ちいさくて、はかなくて、消えてしまいそうな気がした。
「最初、二ケ月目までは、大丈夫だって思ってた。ここで、この何もない村で、一生暮らしてもいいって・・・」
彼女はまた、ふっとためいきをついて、私から視線をはずし、つぶやいた。
「でも今は、自信がないの」
確かにこの島は、常夏の海を楽しむリゾート客のためのもののように、思われた。南シナ海の孤島。村には、一台の車もない。村人の娯楽は、村の中心にあるテレビで見る洋画かバトミントン。しかも、そこに集まっているのは、大部分が男性だ。女性の地位は低く、目だったことはできない。うわさばなしが、一番の娯楽。それが、この島の生活。
「水上タクシーですぐの隣町に、今、大きなホテルが建設中なの。そこで、働こうかと思っているの。そうすれば、この村に対する考え方が、変わるかもしれないし。雇ってもらえたら、最高なんだけどね」
彼女の瞳は、少し輝いた。
「私、子供の時、犬を飼っていたの。もう、ずっと前に死んじゃったけど。最近、よくその犬のことを思い出すのよね。なんでかな」
そういえば、私にも、なんの脈略もなく思い出してしまう記憶がある。そのことを、少し悲しく、少しなつかしく感じた。「後悔しているの?」そう聞くことが、できない。
私たちは、真っ暗な、少し他人行儀な夜の海に目をやり、しばらくの間、はなしをしなかった。
それから数日後、私は旅を続けるために、メインランドへ戻った。彼女は、滞在日数を更新するために、シンガポールへ向かった。私たちは、またね、とだけ言って手を振った。
一年たった今、私はこの島で出逢った人達のことを、よく思い出す。あの時彼女は、波間になにを見ていたのか。私は、何を見ていたのか。そして、見たくなかったものは、なんなのか。なぜ人は、あることがらについてだけ繰り返し思い出すのか、すこし不思議な気持ちでいる。
日本にいる時は、どこをどう見ても日本人にしか見えない私ですが、海外では、特に日本の人に、日本人と思ってもらえないことがあります。シンガポールでは道を尋ねられ、コタ・バルでは「日本人だったんですか!」と驚かれ、飛行機では、隣に座る日本人女性に「エクスキュウズ ミー」と声をかけられました。アジアに行くと、アジア顔になってしまうようです。けれど最大の理由は、日本人にあるまじき、みすぼらしい服装のせいじゃないかな、と思います。
旅に出ると果てしなく汚くなる、しばもとなのでした。
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