番外編 「夢」
 

 長い間異文化の国や地域を放浪していると、現実の世界から切り離され、誰でもつい、夢を見ているような気持ちになるものらしい。
 確かに経験してきたはずのものが非日常的な感覚と混ざり合い、夢の彼方へと飛び去ってしまう。そんなことがよくあるものだ。
 私の場合、現実的なものから逃れたいがために放浪しているきらいがなきにしもあらずなのだから、「現実の世界から切り離されたような気持ち」は、歓迎すべきものなのかもしれない。それでも、人に話したいことがらが自分でも本当にあったことかどうか解らないというのでは、相手も困るだろうし、実は本人も、とても困ってしまうのだ。
 けれど、現在の時点で、「どうにも確かめることができなくなったもの」という、そんな曖昧なものもこの世にはあるのだし、もしかすると、この世界のほとんどがそんなものでできているのかもしれない、とも思う。
 そう思えば、今この時点の現実感は薄れていき、私達は「うそつき」と自分を責めることもなく、のびのびと話をすることができるようになる。
 目を閉じれば夢とも現実ともつかない物語の中に、私はいつでも身を置くことができ、そしてあなたを「私の中の現実」に誘い込む事ができるようになるのだ。

 その街の、詳しいことを私は実は覚えていない。
 けれどその街は冬でも明るく暖かく、人々の躍動感に満ちていた。色々な事が薄れつつある今も、そのことは覚えている。
 街路は清潔に保たれ、かといって、妙に無機質なよそよそしい感じはなく、私を安心させる材料のなにからなにまでがそろっていた。
 私はこの気持ちのいい街で、いつも午後一番の時間をカフェで過ごした。
 そんな体質があればの話だが私は大の飲み物体質で、病的なほどいつもなにかを飲んでいた。喉が渇いている時でなくても、いつもカップかグラスを手元に置いておかないと落着かなかった。
 そんなわけで、私の腹部はいつもむくんだように丸く膨らんでいたが、いつもアルコール類を飲んでいるわけではないし、ひっきりなしにタバコをふかしている人に比べたら、まだ少しは健康的だと妙な理屈で自分を納得させていた。

 そんな私に、カフェは特等席を提供してくれた。
 午前の仕事が終わりそして午後の仕事が始まるまでの休息の数時間、労働者たちはそこに集い、何杯かのお茶を囲んで語り、笑い、そして散っていく。そんな、たぶんこの街ではあたり前のことが、日々不規則な、それこそ不健康な生活サイクルをなぞる旅行者の私には、ある種の儀式に思え、実際、私の生活の中心線にすらなっていたのだ。

 ある日、ホテルの年老いたコンセルジュが、毎日カフェ通いをする私に、そっとささやいた。 「この街には、特別なカフェがあります。あなたが所望する、すべての飲みのもがそろっています。この街の自慢です」
 私は、ありがとう、行ってみます、とだけ言うと、小額の紙幣を彼に握らせた。彼は小さく小さく微笑んだ。

 そのカフェの場所はすぐにわかった。明るい陽射しと石畳が続く公園沿いの一角に、その店はあった。 回りにも同じようなカフェが立ち並び、石畳にまでテーブルを出していた。
 それぞれの店の外観は、特に個性を打ち出している風もなく、このエリア全体がまるでひとつの大きなカフェのように見える。
 年老いたコンセルジュが教えてくれた「自慢」のカフェも、全てにとけ込んでいる店のひとつで、ほかの店と同じように、間口が狭く、奥行きが深かった。入り口を入ったすぐのところに、なぜか進入する者を拒むような、正方形のカウンターがあるのが唯一特徴的だ。
 客たちは、中央にあるカウンターを避けるように壁際を歩いて店の奥に入っていく。そのたびに壁のレンガのささくれに、極太毛糸で編んだ手編みのセーターの、この地方独特の複雑な編み目を引っかけては慣れた手つきではずしていた。
 私は今までに、こんな客動線の悪い造りの店を見たことがなかった。
 気になってカウンターの中をのぞき込むと、床の中央部にぽっかりと穴があき、薄暗い地下に向かって階段が伸びていた。それはまるで時空を越えて、どこか遠く、今ではない、ここではないどこかに続いているように見えた。
 その正方形のカウンターの席には、なじみ客であろう男達が、若い金髪のウエイトレスをからかいながらなにかを飲んでいる。

?

 そう、「なにか」を飲んでいたのである。
 けれどそれがなにかは、私には見当がつかなかった。
 白い陶器のカップには、かつて見たことのないほどの真っ赤な液体が湯気を立てていたり、ガラスのコップの中に満たされた透明な液体の上に、真ん丸な、なにかが浮かんでいたりした。
 皆、不思議ななにかを飲んでいた。私の知らない「なにか」をである。
 とりあえず、私も皆と同じように壁に上着をこすりつけながら壁際を通り、カウンターに一番近い席に座った。そして、金髪のウエイトレスの一人を呼んで、メニューを持ってくるように告げた。
彼女は、すこしいぶかしそうな顔をしながら、私には解らない土地の言葉でなにか小さくつぶやいていたが、やがて、かしこまりました、と英語で言うと、あのカウンターの中に消えていった。

 数分後、彼女はメニューについているほこりをダスターで拭きながら現れた。彼女の腕に抱えられているメニューは、百科事典と同じぐらいの厚みがあった。
 彼女は、お待たせ致しました、と言うと茶色の革で装丁されたメニューをテーブルの上にそっと置き、重々しい表紙をめくって一ページ目を開けてくれた。
 私は「宝の地図」という物を、今までに一度も見たことはない。けれど、きっとこんなものだろうと想像することはできる。
 若い金髪のウエイトレスが親切に開いてくれたメニューの第一ページ目は、私に宝の地図を思い起こさせた。
 黄色く変色した、虫食いのある古びた魅力的な地図……。
 そしてそこには、家系図のような、あるいは、なにかトーナメント・ゲームの対戦表のようなものが描かれていたが、それを説明している文が、残念ながら見慣れたアルファベットではなくこの地域で使われている四角張った文字であったために、私になんの情報も与えてはくれなかった。
 次のページも、私にとっては全く解読不可能な、暗号だらけのまさに宝の地図だった。
 私がお手上げ、というような大袈裟なジェスチャーをすると、ウエイトレスはちょっと笑ってかがみ込み、ぺらぺらとページを操ると、ティー、カフィー、と指差した。
 そこには、やはりわけの解らない四角い文字とこの国の通貨単位の記号がついた数字がセットになり、ページの上から下までびっちりと並んでいた。驚いたことに、次のページも、そしてまた次のページも同じであった。
 この分厚いメニューの中に、数限りない飲み物の名前が行列を作り、オーダーされるのを今か今かと待ち構えているのだ。皆が飲んでいた、不思議ななにかの正体がここにあった。
 紅茶の欄はどこ? 私は混乱する頭でようやく尋ねた。彼女はまたぱらぱらとページをめくり、このページから、このページまでです、答えた。一センチ以上の厚みがある。
 私はどうすればいいのか解らず黙っていた。ウエイトレスは微笑んだ。
 「紅茶でしたら、濱の紅茶はいかがですか」
 彼女はハマノコウチャと発音した。実は、私の背後に座っている男もさっき、ハマノコウチャ、と注文していたのだ。
 大袈裟に巻き舌をしたり、やたら鼻に抜けたり、突然イントネーションを上げたり下げたりするこの国の言葉を、私は理解するどころか単語のかたまりすら捕らえることができないでいたのに、彼らが発したハマノコウチャという言葉は、のっぺりとして抑揚もなくとても日本語的で、私の耳にするすると入ってきたのだった。
 濱の紅茶。私はつぶやいてみた。
 「はい、東洋のお茶でとても珍しいものです。手に入れるのはとても難しく、金やシルクと交換されています」
 いくら珍しいものだからと言って、いまどき、本当にその紅茶と金やシルクが交換されているとは思えない……。
 それは心の声であって、特別不信感を顔に表したつもりはなかったが、私の日本人特有の目つきが、疑惑の眼差しとでも映ったのかもしれない。彼女はショートの髪を揺らしながら、ちょっと怒ったように耳を赤くして断言した。
 「本当です。証拠を見せます」
 ウエイトレスはくるりと背を向けると、正方形のカウンターの中に消えた。

 やがてウエイトレスは、複雑な彫刻をほどこしたお盆の上に、紅茶のセットと四角いつつみを乗せて戻ってきた。そして、笑顔でカップに紅茶を注ぐと、四角いつつみをテーブルの置いた。
 「どうぞ。これが、ハマノコウチャです」
 私はつつみを手にとってみた。山吹色の油紙のようなもので、きっちりと包装されたそれには、やはり山吹色のラベルが貼ってあり、濃いオレンジ色でこう横書きで印刷されていた。
 超特級紅茶葉・ナカ濱紅茶ブランド
 それは、まぎれもなく日本文字であったが、ナカ濱紅茶などというブランド名は聞いたこともなかった。 名前の下には小さく「ナカ濱小唄」なるものが印刷されていた。三番まであるこの歌詞の最後の一行に、なぜか一部ローマ字で「Ah Hamano Ko‐Cha」とあり、そしてその下には英語で、「金、シルクと交換の事」と記されていた。
 私がこの国の文字をまったく理解できないように、この店の人も日本の文字を読むことはできなかったのだろう。唯一の手がかりが、「ナカ濱小唄」の歌詞だったわけだ。
 「目を閉じて、香りを試してください」
 私がここまで確認したのを待っていたかのように、ウエイトレスが声をかけてきた。私は言われるままに目を閉じた。そして息を吸い込んだ。
 「次に紅茶事体を試してください。お砂糖は入れますか?」
 私は黙って首を横に振ると、そっとカップを持ち上げ、紅茶をひとくち口に含んだ。いかがですか、の問いに、私は黙ってうなずいた。
 ウエイトレスは満足そうに微笑むと立ち去った。
 彼女が薦めてくれたハマノコウチャではあったが、私にはまったく普通の紅茶だった。まずいくらいのほうがまだありがたみがあるのでは、と私はひとり苦笑した。
 そして紅茶を飲み干した私は、今度こそ珍しい「なにか」を飲むべくウエイトレスを呼び寄せた。
 もうどれでもいいと覚悟を決め、あの人と同じ物を、と後ろを振り返ると、いつのまにかあんなに賑わっていた店内にはもう誰もいなかった。
 不思議そうに見つめるウエイトレスに、私はなぜか少しほっとして注文した。
 「ハマノコウチャ、プリーズ」

 私は結局そのカフェで、ハマノコウチャ以外のものを飲んでいない。なぜならその日以来、そのカフェに行くことがなかったのだ。
 次の日、件のカフェ街に出向いてみると、少し時間が遅かったせいか曜日が悪かったせいかわからないが、どの店もシャッターがしまり、私は迎え入れられはしなかった。
 行き場を失った私はホテルに引き返し、日暮れまで昼寝をしてしまった。そのせいで、夜目が冴えてしまい、退屈した私は一晩中明かりが消えない街一番の繁華街をあてもなくうろつくことになった。
 その次の日からは、バーで出会った陽気なイスラエル人旅行者タールの美術館巡りにつき合い、彼にうながされるままタクシーに乗せられ郊外へ出かけてばかりいて、ひとりであのカフェに行く機会を失ってしまったのだ。
 急激に私の毎日は忙しくなり、そんな事をしているうちに90日の滞在許可日数は底をついてしまった。
 私はタールと再開を約束し、ひとり隣国に脱出して再入国の手続きをしていたが、どうしても許可がおりないままその国の滞在許可日数の15日間が過ぎた。私は仕方なく簡単に行ける隣国へ向かった。そしてその国でも、再入国の許可は下りることはなかったのである。
 こうして少しづつ少しづつ、あの国と、そしてハマノコウチャから遠ざかる事になった。結局持ち金も心細くなってきた私は、後ろ髪を引かれながら東回りで日本に戻らざるをえなかった。

 それから私は一度もあの街には行っていない。相変わらず私は自身の放浪癖に操られ、ふらふらと旅を続けているのだが、なぜかあの国には行っていない。
 私が行こうと意識しなくても、いつかあの国が私を誘い込む時が来るだろう。その時を私はゆっくり待っている。
 いつもいつも、夢を見ているような気持ちに揺られながら。今度は更に夢の、その奥へと。


☆これは私が実際に見た、夢物語。私は夢をよく見ます。いつもは、不条理というか、夢ならではの夢?が多いです。けれどこの夢は、すごくハッキリした夢で、内容もつじつまが合ってました。そういった意味ではとてもめずらしい夢です。ちなみに、私のハンドルネーム、「みんぴ」は Mimpiマレー語でゆめ、です。それでは Selamat Tidur!(おやすみなさい)

 



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