仏 教 語

我慢(がまん)
    我慢という言葉は、現在堪え忍ぶという意味で使われています。しかし、
   本来の仏教語では、自己の中心にある自我のために自らを誇り、他者を侮
   り、思い上がる驕慢な心の状態をいいます。
    仏教でいう悪い意味の「我慢」が忍耐というプラスの意味合いに転じて
   しまったのですが、明らかに、仏教的な意味と現在使われている意味は違
   うのです。
    ですから、仏教的には我慢は良くないことですから、我慢になってはい
   けないのです。
    私たちの心にはおごり(慢)、おろかさ(癡)、いかり(瞋)、むさぼ
   り(貧)という煩悩があって、それに気づき、そこから解放されることが
   悟りの第一歩なのです。
    しかし、私たちは怒ったり、欲を出したり、自分に執着し、他の誰より
   もまさっているとたかっぶたりもします。謙遜も自慢のうちといいますが
   そんな心の状態が見え隠れするのが、人間の哀しいところです。
    このような我慢はよくないので、仏さまの教えに目覚め、きびしく自分
   の心を見つめて修行していくうちに、いつの間にか「堪え忍ぶ」という、
   現代の解釈に結びついていったのかもしれません。

                              真言宗豊山派 『光明』 より

出世(しゅっせ)
    出世は出世間と言う言葉を略した言葉ともいえます。
    世間から出て、仏の世界に向かうことをいいます。世間は万物が移り変
   わっていく無情の世界。そこから悟りの世界に向かうことが出世間なので
   す。
    「世間」という言葉の源流を古代インドまでさかのぼると、サンスクリ
   ット語の「ローカ」という言葉にぶつかります。ローカはもともと、場所
   を示す言葉ですが、その他に日常生活、俗事などと訳される場合もありま
   す。それが佛教用語として中国に伝わったおり「世間」という漢字に置き
   換えられたのでしょう。
    また「世間」に対応する言葉として「出世間」と言う言葉があります。
   世俗を離れ清浄なる世界と解釈されます。
    サンスクリット語では、「ローコーッタラ」といいます。世間を表す
   「ローカ」によりよいという意味がついて出来た言葉です。

                              真言宗豊山派 『光明』 より


一蓮托生(いちれんたくしょう)
     一蓮托生とは、死ぬも生きるも行動や運命をその集まりで共にすること
   の意味で使われています。現代では、犯罪や何か悪いことをしでかした時
   に、共謀して悪い方向に向かって運命を共にするというような悪い意味で
   使われることが多いようです。
    佛教でいう一意連託生とは「わたくしどもは死んだら、極楽浄土に往生
  (おうじょう)、ともに蓮の台(うてな)に生まれること」です。限りある
   人生において、極楽浄土に思いをはせ、死なば諸共に安らかに、心定めて
   生きて逝くという思いから、しだいに使い方に変化したものでしょうか。
    蓮華は佛教では泥に汚れぬ聖なる花とされ、佛・菩薩の座とされ、教え
   とみ佛さまを象徴します。また、わたくしどもが本来有しているとされる
   佛の心を表すとされます。

                              真言宗 『観自在』 より


一期一会(いちごいちえ)
    接待やおもてなしの心得として現代もよく使われている言葉です。一期
  (いちご)とは最期(さいご)といわれるように人の一生のこと、一会(い
   ちえ)は法会(ほうえ)といわれるように、佛教的な聖なる集いのことを
   いいます。
    人のその一生のうちでただ一回会い見(まみ)えるということで、その
   出会いを大切にし、お互いに心暖かい清々しいひと時を過ごそうというも
   のです。
    人の一生は予期できぬもので、明日は交通事故や病で帰らぬ身となるか
   も知れず、人の運命は、はかないものです。親しい間柄であってもお互い
   に礼を尽くし、別れたあと爽やかな余韻があるように質素でも心を尽くし
   たもてなしや出会いとしたいものです。

                              真言宗 『観自在』 より


安楽(あんらく)
   「安楽」は仏教ではみ仏さまの境地、心の安らぎ、心楽しさ、心身の理想
   の安らかさをいいます。
    安楽は容易な、ゆとりのあるという意味で、また安易なという意味で使
   われることもあります。本来は精神的な苦しみや悩みが無く、心身的にも
   安らかで寛(くつろ)ぐようすをいいます。
    理趣教には「大安楽豊饒」とありますが、仏教で説かれる安楽は全ての
   ものの、不壊の永遠の安らかさをあらわします。安楽に感じていても将来
   不幸に変わっていたり、悪しき報いがあるものは安楽とはいいません。自
   らも、そして常に周囲の人々や社会の幸福や安心の祈念を意味するもので
   す。

                              真言宗 『観自在』 より


極楽(ごくらく)
    教典には阿弥陀さまのお浄土で西の方に向かって十万億の仏国土を過ぎ
   た彼方にあるとされる理想の世界で、極楽浄土、安楽国や安養国ともいわ
   れます。
    極楽や理想郷は、説かれたその当時の人々の生きる社会の差別や貧困、
   生命の危険、苦痛などが全て取り除かれ、信心を全うできる考えられる限
   り裕福で安楽な理想の世界が描かれています。
    死後の霊魂が往く安住の世界を極楽浄土といいますが、先ずはこの現世
   をお浄土に近づけるように創る努力が、現在の社会を慈悲の満ちた平安な
   仏国土とします。

                              真言宗 『観自在』 より


快楽(けらく)
    現代では快楽(かいらく)と読まれますが、仏教語としては「けらく」と読まれます。
   現代では遊興的な楽しみや肉体的、性的な快楽という意味で使われることが多い
   ようです。
    快楽(けらく)は精神的な楽しみ、法悦の楽しみ、心身の安楽と清浄な快さを表し
   ます。
                              真言宗 『観自在』 より


秘密(ひみつ)
    秘密は隠して知らせないこと、公開しないこと、ある思惑で秘されてい
   ることと、秘奥(ひおう)学問や宗教などの奥深い意味という奥旨(おう
   し)、深遠な奥義(おうぎ)と同様の意味を持ちます。
    秘密の「秘」には秘奥という意味があり、「密」には隠密の意味があり、
  「顕露」に対するとされます。
    み佛さまの教えの中には、非常に奥深く微妙なことがらや大事な意味が
   あり、誤解されるおそれのあるときにはみだりに説かれないという場合も
   秘密といわれます。
    さらに、秘密ではなく明らかなことなのに、真理を目の前にした者自身
   が、煩悩や妄想にとらわれていたり、知識や体験、認識などが浅いと理解
   できない状態、修行の浅いこともあるとされます。
    佛の教えには直接に明示して説かれずに神秘であり深遠な意味をもって
   説かれることもあります。
                     真言宗 『観自在』 より


内証(ないしょう・内緒)
    現代では、「内緒の話」「内所」という当て字の使い方のように、他人
   には言えない、他の人に知られたくない、秘密にしておくことなどを表す
   ときに使われることが多い言葉です。
    佛教用語の場合は、「内証」の漢字が使われ「ないしょう」と読まれ、
   自内証(じないしょう)ともいわれる大事な佛教用語です。
    佛道を修し、各自の自己の内で真理を悟り、感得することです。対する
   言葉は「外用(げよう)」で機根に応じて佛が自在に説かれたはたらきを
   表します。
    内証は、み佛さまの心の内のさとり、高度な内面的なさとりであり、計
   り知れないほど奥深いものです。ことさら秘することなくとも表現がし難
   いもの、佛教の真理を得ることを「内証」といわれます。
                     真言宗 『観自在』 より


現世利益(げんせりやく)
    利益(りえき)は、利すること、利得、得分、儲けなどをいいます。ま
   た「公共の利益」というような「・・・のためになること」「益になるこ
   と」という意味で現代でもよく使われています。
    「利益(りやく)」と読むと佛教用語で「ためになること」「すぐれた
   利点、功徳(くどく)」「他人を益すること、恵みを与えること」さらに
   は「み佛の教えに従うことによって得られる幸福や恩恵」を表します。
    サンスクリットの言語の字義には、支持する、助ける、奉仕するなどと
   いう意味があるそうで、親切、実利、目的なども表します。
    現代で現世利益といえば、ほとんどの人が、現実の個人の欲望が思いの
   ままに満たされること、と誤解されていますが、実はそれも大切なことで
   も
あります。
    その人のお願いごとがかなって、嬉しくて心楽しいこと、心安らかにな
   られるとは、正にみ佛さまのご誓願(せいがん)であります。
    神佛に誠意を捧げると善き結果がもたらされる「御利益(ごりやく)」
   があったといわれます。
    自分の利益(りやく)と他の人の利益の完成を目標とすること、人間と
   しての向上は願望成就のあかつきには、世のため人のために尽くさせてい
   ただきますという誓いがあれば充実したものとなります。
    他人の利益とは生きとし生けるものを苦しみから解放すること、一人の
   人の幸福が周囲の人々にまで潤され、慈光のように広まっていくものでご
   ざいます。
    現世利益はみ佛さまの示される大慈大悲であり、そうした機縁により、
   さらにどなたもがみ佛さまのような暖かいお人柄に導かれることが喜ばし
   いことです。
     



不可思議、不思議(ふかしぎ、ふしぎ)
    「不思議な現象だ」「七不思議」など現代でもよく使われる佛教用語で
   す。思議は考えはかること、で不思議は思いはかれないこと、思いはかる
   ことができないことをいいます。
    よく考えても原因や理由が解らなくて、解釈がつかないこと、さらには
   訝(いぶか)しいこと、妖(あや)しいことや奇怪という意味でも使われ
   る日常語です。
    現代人は、便利になりすぎた社会に暮らし、その多くに成り立ちもほと
   んど考慮なく当然と思ってい何の疑いもなく生活しています。
    宇宙や大自然の神秘、生命の神秘に畏敬の念を持ち難くなりつつあるよ
   うで、飽食と合理性もどきに、直感や五感が鈍くなっているのかもしれま
   せん。
    不思議は、人と佛教の出会い、神秘体験、ありがたいおかげの体験や、
   内面的な発心、覚悟、み佛さまの覚りや智慧、ご誓願などを表すのに用い
   る用語で、教典にもよく出ています。
    観音経には「歴劫不思議」という偈文があります。阿弥陀佛を不可思議
   光仏、また誓願不思議という言い方に、不可称不可説不可思議の故、とい
   うような表現があります。
    人間の言葉で言い表したり、心で推し量ることのできない無量、久遠(
   くおん)、無碍(むげ)のようすを言い表そうとしています。
    また、「不思議」は億や兆のはるかに大きく、佛教で数の単位として十の
   64乗、あるいは十の80乗のことをいうとあります。途方もない数、果
   ての無いこと、人間の存在の微塵さ、時間の儚さ、有限性の無常を感じさ
   せ、人間に謙虚であり、人生を大切にするよう諭す数の単位です。

   言葉は「外用(げよう)」で機根に応じて佛が自在に説かれたはたらきを
   表します。
    
                     真言宗 『観自在』 より




後生(ごしょう)
   「後生」という言葉もその一つです。例えば、許しを請うたり、折り入って
   事を頼んだりする時に使う「後生だから」や「後生大事にしている」などが
   そうです。
    本来「後生」とは、サンスクリット語の「プナルバヴァ」の訳で再生とい
   う意味を持っています。前生・今生と対応して、来世、あの世、死後の世界
   などを指します。また、極楽に産まれかわり、安楽を得ることも後生といい
   ます。
    後生にまつわる言葉はその他にもたくさんあります。
   『後生が大事』信心し、善行を積んで、来世で安楽に暮らせることを願うの
   が大切だということ。
   『後生願いの六性悪』来世の安楽を願っていながら、徳を積むどころか、か
   えってたちの悪いことをすること。
   『後生は徳の余り』現世の生活にゆとりがあればこそ、来世の幸せを祈るこ
   とができるということ。
    佛教の中で「後生」というのは、正しい信心に励み、次の世界(死後の
   世界)でも安穏に暮らすことができる、という意味が込められているのが
   一般的なようです。



意識(いしき)
    般若心経の中に「無限耳鼻舌身意−」「無限界。乃至無意識界−」とあり
   ますが、意識という言葉はいろいろな意味で現代でもよく使われているもの
   です。
   「意識の高い勤労者」「無意識の無作法」「自意識過剰」「勝利を意識して
   アガる」などもあります。
    ふつう自分の感情や意志などの働きを含む、自分が今していることがわかっ
   ている状態を表します。
    仏教では、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識を五つの感覚器官を五識、
   それらを総合的に把握し認識する内面的な精神活動、心のはたらきを第六識
   とか、「意識」といいます。さらに眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識と
   末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)を「八識」といい、末那識・
   阿頼耶識をいわゆる深層心理と言われているものです。「後生」という言葉
   もその一つです。

                     真言宗 『観自在』 より   



観念(かんねん)
    観念も現代でもよく使われいる仏教語ですが、「経済観念に欠ける」や
   「責任観念に乏しい」とか「もう観念した」「固定観念にとらわれる」など、
   さなざまな意味合いに使われています。
   「ものごとに対する考え、その人の見解」という意味になったり、「あき
   らめること」、もはやこれまでと「覚悟する」という意味合いで使われますが、
   「諦める」は本来は明らかに観ることであり、とても仏教的なことなのです。
    仏教用語で観念は「観想(かんそう)すること」「観察し思念すること」で
   御浄土やみ仏さまのお姿を観想し、全身全霊で拝し、真理をめぐらし心を集中
   してよく思念することをいいます。
    たとえ苦境の中でも、正しく観想し観念できれば、前向きにより善き道に
   導かれていきます。

                     真言宗 『観自在』 より



業な(ごうな)
    面倒くさいことや鬱陶しいことが起こったときや、関わりを持つとき、よく
   「業な」と言われます。また執拗で厄介な人を「業が深い」と言うこともあり
   ます。
   「非業の最期」は(前世の因縁によらない)思いがけない災難によって死ぬこと
   をいいます。
    日常でよく使われる言い方ですが、仏教語から言えば、好ましくない言い方で
   誤用といえます。
   「業」というのは梵語・サンスクリット語の「カルマン」という言葉の訳で本来
   はただ単に「人間のなす行い」や「作用、行い、動作」という意味なのです。
    ですから人間の行いには、悪業というものもあれば、善業というものもありま
   す。自分の言動には全て結果と責任がついてくる、自業自得(じごうじとく)
   なのです。業因(ごういん)によって受ける「報い」を業果(ごうか)といい
   ますが、善因善果でありたいものです。
    業苦、かつてなした行いの結果、現在受ける苦しみ、この宿業説は決して仏教
   的ではありません。
    業を清らかに正して、み仏さまに近づかせていただく生涯、向上し、品格を
   高めるよう導かれます。
    昔から道徳的、倫理的に悪い業をたしなめて、善き事を勧めることが多かっ
   たので「業」は転用され、単に悪いという使い方になってしまったのでしょう。
    過去に行った自分自身の「悪しき業」が悪しき将来をかたちづくる、自業自得
   ということは皆さまも実生活で感じることがよくあります。み仏さまの慈悲の
   おすがたを心に思い浮かべ、見習いたく、よく自らを抑制して、人を傷つける
   悪い言葉をはいたり、荒く悪い行いをしないように、常に我が身を反省しつつ、
   謙虚に生活してまいりたいものです。

                     真言宗 『観自在』 より



歓 喜(かんぎ)
    仏教の修行は厳しいものがありますが、み仏とのご縁を信じて、み仏さまが好きで
   仏に導かれて喜々として行に向かい、進ませていただく、この歓喜という言葉は大切
   仏教用語でもあります。
    仏教語のときは「かんぎ」と読まれ、「歓喜」とは宗教的な満足した「よろこび」
   であり、歓喜天(かんぎてん)、歓喜踊躍というように人がみ仏さまに救われ心の底
   から喜ぶ時には人が見ていようがいまいが関係なく、我を忘れ、踊り上がり全身全霊
   で喜んでしまうのが真の姿なのです。
    み仏さまを信じて心が落ち着き、み仏と共に生きて喜びに心暖かな心境のことをい
   います。

                     真言宗 『観自在』 より




願(がん)
    祈願(きがん)、願かけ、願書、願文(がんもん)など熟語として『願』はたくさ
   ん使われています。
    家内安全、良縁成就、安産守護など『願』は願主が善きこと願い求める時、そのた
   めにどのように真心を示すか、良い誓いが最初にあります。誓いを守る誠意によって
   願望がかなうよう導かれます。
    み仏さまのお約束は「誓願」といわれますが、私たちを救われることを誓われ、
   慈悲の行をされている至高の願を意味します。
    良い願いや目標を、神仏にかなう良い心で願い続けること、強く一心に願うことが
   大切です。
    たとえば、入試合格を願う時は、志望の学問を修めて世のため人のため尽くせる社
   会人となりますよう願われることが大切です。
    願掛けには、そうした良い誓いがあり、み仏の御心にかなうように良き方向に導か
   れるものです。

                     真言宗 『観自在』 より


ご存じでしたか?こんな言葉も仏教からきています。