医者というもの
人から「医者」と言われるのは近年少し侮蔑的なニュアンスがあって快くない。世の「医者=悪者キャンペーン」のおかげで、特権階級的なイデオタイプができているからだろう。田舎では「医者様」として扱われることもあるが、ずいぶん変わってきた。世の中いろんな医師/お医者さんがいる。多難な今日だが、少なくとも多様でありうることがこの業界の活力だと思っている。
が、いろいろな職業と比べると、いかなる方向性の医者にしろ、大抵は自己肯定感が強烈にある。それは、「よりよい」医療の実践者であっても、旧来のお医者さんでも、自分の方法を良しとし、そういう場を形成し、そういう言説を産生する点で同じ穴のムジナである。自分の診断、治療が正しい、良いとする在り方は科学も宗教も紙一重である。私が今まで最も尊敬してきた先達や友人についても全くあてはまる。(ところが田舎医者とも言えるお医者さんにはその点全く謙虚でソツのない先達もいる。)
言葉を替えれば権力構造とも言えるし、依存形成と言った方がしっくりする。患者に感謝されるのは気持ちよい(お世辞もあろうが)。信頼できる医者に頼るのも患者は気持ちよい。双方気持ちよければそれで良いかというと、私はあまり依存が強いのは気持ち悪い。患者からの信頼(依存)を得々とカタるような医者にはなりたくない。依存が絶対悪であると言うのではない。アルコールやたばこ或いは宗教並に考えてみたらということ。医者が悪いの患者が悪いのというのも意味がない。どっちもどっち、引き分けである。
「私が正しい」という医者
医者はかくあるべしとクライアント(患者)が要求しているのだとも言えるが、地域医療の先達においても、このような言説を多々見た。その中では増田進のコトバ使いは微妙だが、例えば開業医や都会の医者を向こうに回しての批判はよく聴いた。それでは医者たる権力構造を足元から総ざらいしているかというと、そうでもない。氏が決定的な影響を受けた深沢晟男の医者嫌いはもっと根源的だったようだ。それこそが今まで誰も読み取ってこなかった、つまり私が引き受けるべきポイントだろう。
長野の論陣の「医療幻想」「集団検診否定」は批判に出発しながらも、「自分(達)が正しい」という言説化が無かったとは言えない。さらに自分の実践なり、拠点をオルタネイティブに据えることは、患者-医者関係がそのままだとすれば、全く同じ権力構造がそのまま強化していくばかりである。
つまり、今までの医療はダメとして「よりよい」医療を実践した先達も旧態依然のクライアントとの依存関係を展開してしまったとも言える。
医療批判に出発しオルタネイティブ実践に帰着すれば自己矛盾は生じない。脱-病院という診療所オルタネイティブの質はそのレベルだった。
情報公開、インフォームドチョイスという流れはこの点を越えうる転換ではある。ただしセルフヘルプという形の制度編成、依存形成を見抜いていかねばならない。
エエかっこしい
先達の皆様はかなりエエかっこしいだと思う。「お山の大将」と形容した御人があった。残念ながら言いえている。
技術のソフト/ハード軸において実践主義的実践の言説が林立していた。最もソフトな地域医療総論、「赤髭センセイ」においても同様である。
佐久の若月先生が自ら『後衛』と謙遜されていたのは有名だが、それは置いておいて、それとは別に施設全体に対外的なポーズがあった。私はそれが最も苦手だった。ただし若月先生自身はやたらに人をけなすことはしない(たとえ敵であっても)、その点特筆できると思う。
先達に学んで自分で考えることは、実践主義を越えていくためにどう自分を律するか、ということである。また、安易にカタることには慎重にならざるを得ない。コトバの使い方ひとつで、自律的な指向やコンビビアルな方法がバッサリ切断されて実践主義的な言説にすり変わることは多々見てきた。
赤髭不要?
沢内の衰退を見て、増田先生が立派すぎたから、システムが未熟で起きたという文章を読んだことがあるが、違うと思う。後進を育てられなかったというのも、私に関しては違うと言いたい。医療と福祉を混同しているとの批判も耳にした。増田先生がヒーローになってしまったことは否めないし、このサイトでもそう論じてある。しかし、村の舵取りとしての保健医療撤退はまさに政治そのもので、深沢の革命への30年越しの反革命などとさえ呼ぶこともできる(死語に近いが)。政治の対立、展開である。保健医療から福祉の連携、統合ができなかったことが本質である。保健、医療、福祉、行政、住民のそれぞれの問題点を列挙することもできるが、私の学んだことは、福祉デザインにおいて医者は脇役に徹すべしということである。
今や若月や増田たり得ない時代である。あらゆる在所でお山の大将的な在り方は批判されるべきだ。赤髭-対-システムではなく、実践主義の次にくる医者のありよう、さらにはオルタネイティブ依存を越えた自律的生活を行為するということに話を振りたいものだ。
原展の赤髭はスーパーマンである。それは衆生の憧れとして冷凍庫にでもしまっておいて、非-赤髭で行きたい。
医は医なきを期す
これは強烈な自己矛盾だが、真実である。学生時代からの座右の銘なのだが、このことから話を展開できる御人はまずいなかった。医師国家試験が終わって最初に読んだ本は当時新刊だった永井明の『僕が医者をやめた理由』だった。どうも変だから距離を置いてながめてみるというのも一法ではある。がむしゃらに医者にしがみつくより潔いかもしれない。否、どちらがどうというのは意味がない。要はいかに本質を見抜いているかということだ。根源的な思考をつきつめれば自己矛盾である。そこで思考をやめる必要もないし、自己肯定に短絡することもない。医者を辞めねばならない訳でもないし、日々食うためだけに賃労働しているのでもない。
「実際に患者を目の前にして...」
本質的な話をしている時に、そういうもの言いで話を中断しようとする御人に今までずいぶん出くわした。「...お前の言うこともわからぬでないが、実際に...」とか始まる。お前の言い草は気に食わんとか、自分はそういう込み入ったことは考えたくもない、という意味の婉曲なのだが、荒唐無稽だ。
あまり疲れる相手ではそこでお開きにする。まあ、「自分で考えよ」とか「適当にやりましょう」と返すべきところだが、言いようによっては失礼にもなるし。コトバは難しい。
「そうですね、そういう差し迫った場面では旧来身に付いた方法で自然に手が動くでしょうね。でも一生そういう状況にあるわけでもないでしょうから、たまには本質的なことも考えましょうかね。そういう実際の行為の根拠こそが現在問われてきてるんでしょうね。(仮に「実際に-」で同じ過ちを延々と繰り返しているのだとしたらとんでもないことですよ。)
ここ5年ほど、根拠根拠〜と制度側のほうがむしろうるさく言うようになりましたが、これも要注意ですよね。バイアスってのもありますし、自分に都合のよいエビデンスってのもありますから。医療者の言説の強化の道具ですね。尤も時代が転換している根っこはその先ですから。
高脂血症のクスリのことなんか非専門家のNPOなどがもの言うようになった。これは大変なことだと思いますよ。これは医療界の好むと好まざるに関わらず、時代の転換です。今まで医療内で根本的な批判をしてきた医者を排除して済ましてきたことなどとは訳が違うでしょうね。」
-というような話もしようと思えばできるのだが。
参考
「あきらめ」を「希望」に変えた男/及川和男 日経ビジネス人文庫`01
北の思想/菊地達也 成隆出版`85
月刊総合ケアvol.9 no.8 `99-8
命があぶない 医療があぶない/鎌田實`01
地域医療を始める人のために/増田進 医学書院`89
赤ひげは存在するか 国診協編 同朋舎`89
僕が医者をやめた理由/永井明 平凡社`88
医者が尊敬されなくなった理由/永井明 平凡社`90