遊び・道楽
どんな時でも、遊び/道楽って必要よね。
いままで先輩同僚など見ていても、何がしか道楽のある人ほどイイ仕事していたように思う。いや、誰でも何か気分転換している。
日々の些細なストレスが、絶えず去来して、押しつぶされそうになることがある。無心に没頭できる時間ってとても大切だ。どんな世の中でも、どんな状況で
も。
気分転換をしっかりすることは自分を守るスキルだ。
多趣味な自分は、イロイロかじってはきたけれども、みな中途半端だ。だいたい5年周期くらいでがらり様変わりしたり、またぶり返したりしている。まあい
いやと思っている。あんまり執着の強いのもどうかと思うし。
道楽/趣味は所詮遊びレベルなのだけれど、自分の重要な部分だ。
'12 2.1
沈黙
年の瀬で一般マスコミいたるところで今年の大災害を「絆」とか「故
郷」とか「希望」という(かなりあやふやな)言葉で締めくくろうとして
いる。すごく違和感を感じる、空々しさに耳を塞ぎたくなる。過度に感情移入した言い方も嫌だ。そんな時代もあったねと〜と無理くり過去の話
(historia)にしてしまおうというような意図を感じる。被災地/被災者という(なんか恣意的でよくわからん)もの言いも嫌だ。
現実に直面して、沈黙するしかない。
今年は小出裕章先生の語り、書き物に出会った。最近では、ジャンルは教育/カウンセリングになるが、内田良子さんの講演をちょっとだけ聞く機会があっ
て、同じような感銘を受けた。学校教育ムラに対峙する姿勢は小出先生と同じくまったくブレがない。教育業界も医療業界も異端者を排除して○◯ムラ態勢を敷
いて来たのがこの国の現代史であろう。旧態依然の学校プラティックを転換どころか改善すらできずに放置したきたことは、他人事だが、もはや致命的だ。
希望なんて空々しい日本語だ。希望なんてあるのか?。
今年もNumhauserの
"Todo Cambia"
を口ずさんできた(初めて人前で演った)。自分にはこれはいまだにup-to-dateなメッセージで、四半世紀ずっと噛みしめてきたもので、(いまさら
Victor Jara なんかじゃあないでしょ)・・・、ということは解ってくれる人はいないようだ。
年末何だかヒネた気難しいオヤジになってしまった。
来年はバイクかな
大晦日バイクの友人が立ち寄ってくれた。Serow225Wのリアサスも先日オーバーホール上がって、全く別のバイクになった。やって良かったと思う。
DTのオイル漏れも自力修理して復活。
年上の自転車の友人や音楽の友人が「いつまでできるかわからないから・・・(一生懸命やる)」とよく言っていたが、自分は今までピンとこなかった。「ま
あ年相応、枯れた良さってのもあるから、あるがままでいいんじゃないの」みたいなことを返してきたが、最近少し解るような気もする。
近年目と耳の衰えをとくに自覚している。あるバイク友人の友人が「バイク1台1-2年乗ったとしてあと何台乗れるだろうか?」という話しをしていたそう
な。ちょっと寂しい話ではあるが。
'11 12.31
バイク大ピンチ
弱り目に祟り目でピンチヒッターDTも右クランクケースカバーガス
ケットからオイル漏れ発症。
先週末早起きして、冬季閉鎖前にと、秩父の奥の中津川林道に行ってきた。オイル滲み程度だったのが、途中秩父あたりで結構な漏れに。増締めして、ややお
さまったので、林道突入。久しぶりのロングダートはとても楽しく、紅葉も景色も良かったけど、川上から野辺山、佐久、下仁田と緊張しながら帰ってきた。ホ
ムセンでギアオイル買って補充しながら、後ろブレーキキャリパーとタイヤサイドもオイルまみれ!怖い!リアブレーキ無し、右バンク禁。夕暮れ前に無事帰宅
してホッとした。
普通なら「こんなポンコツ!」とブン投げてしまうところかも。でもこのポンコツ、妙に愛着がある。5年前、開業1周年の自分へのご褒美じゃ〜と無理矢理
理由をつけて「とりあえず動くポンコツ」を格安で買って、コツコツ自分で修繕して、友人にも手伝ってもらい、乗れるようにした。フレーム剥離塗装までやっ
た。部品代をケチったため、エンジン焼き付きの手痛い目にもあった。DTシリーズで最も過激なWR、バッテリーレスであること、足付き悪い、キックしづら
い、アクセルワークもシビア、ヘッドライト暗い、2スト臭くて汚れるしこっ恥ずかしい・・・パワーバンドの加速の快感以外、不満だらけのバイクだ。手間を
かけたことや、どこそこへ行ったとかの思い出だとか、いろんなトラブルの思い出とか、欠点を打ち消す魅力とか、まあ無くはない。けれど、それだけじゃなく
て、これは手放しがたいバイクに思える。
今回久しぶりに自力で修理しよう。ガスケット代1320円でなんとか復活させよう。
ついでに自分にとってバイクのベンチマークはSR400だ。パワー、燃費、重さ、振動、操作性、運動性能、あとは総合的なオーラみたいなもの・・・。ほ
とんどのバイクはSRと比べれば許せる(それほどSRがひどいか?そんなこともないが・・・)。SRで遠乗りを経験してからは、どんなバイクでもどこまで
でも行けるような気がしている。
DTは燃費がSR同等程度で他すべて勝る。
Serow225Wはトルク感以外ほとんどSRくらいには走る。高速も予想以上に法定速度でまあ流れに乗れる。荒れたダートはあまり走ってないが、足付
きの
良さはDTやフルサイズオフではためらう状況で頼もしい。エンジンフィールや乗った感覚はSL230が良かった気もするが、良くできたバイクだと思う。
'11 11.27
『宮沢賢治の彼方へ』他、天沢退二郎を読む
田中正造を複眼で読もうとすると、もはや四世代以上も昔の遠い歴史であるのを痛感する。深沢晟男という現代史にあってすら、史実とかけ離
れた<本>が成立することを考えると、なおさら正造とその時代を読む難しさを思う。
宮沢賢治について、天沢退二郎の本は数冊持っていたが、それらを購入した四半世紀前にはピンとこなかった。詩人・賢治の作品を敢えて難しい言葉で解釈し
て語ることへの違和感や、書かれた言葉使いにあの'60年代の妙にトゲのある時代の空気を感じていたと思う。井上ひさしの『宮沢賢治に聞く』のようなやや
コミカル仕立ての作品に詩人への愛というか、ハートを感じていた。
しかし、「賢治童話の彼方」へ至ろうとする天沢のほぼ唯一無二のスタンスは、私にとってネガティブな<評論>などという閾を超えた彼方のものであること
が、今になってわかった。
モーター乗りものピンチ
RTは車検切れ、普段乗りのSerow225Wはリアサス抜け、オールドスバルはクラッチ滑り、と散々な目に。とても痛い。
抹消せずに保管していたDT200WRに自賠入れて復活、久しぶりに乗っている。外のお仕事も天気いいと2ストでパィ〜ン。
粕尾峠で足尾に行った帰り、佐野の奥の方
'11 11.11
田中正造生家
郷土の偉人に義人・田中正造がいる。下野の国、安蘇郡の人だが、晩年を過ごした旧谷中村は当地の隣村であった(現渡良瀬遊水池)。田中正
造と足尾鉱毒事件の話は小学生のころから副読本やら、講演会のようなもので、郷土の歴史として知っていた。近所に谷中出身の家族もあるし、正造晩年には古
河町の商家はずいぶん支援をしたのだと伯父が話してくれたこともあった。
しばらく忘れていた田中正造翁を思い出したのは、京大助教の小出裕章先生の研究室に翁の肖像が掲げてあった画像を見たからだ。
それで、佐野市の正造生家を初めて訪れてきた。予想に反して、とても質素な屋敷だった。ボランティアのかたが丁寧な案内をしてくれた。正造晩年以降は医
家を招いて母屋に住まわせたという。沢内村の深沢家が戦後斉藤龍雄、アヤ夫婦を住まわせたのと似ている。
'70年代後半に買った正造関係の書籍を読み直してみた。壮絶な一生で、特に晩年に生きざま・戦術を転換していくさまが新たな発見で、非常に興味深い。
マハトマ・ガンディーや宮沢賢治、あるいは深沢晟男と類似した倫理を感じる。信仰と言ってひとからげにしてしまえばそれまでだが、人間主義を超越した思想
だ。
'11 10.26
川俣コスキン祭
今年の参加はかなり迷っていたのだが、夏に当地の夕焼けコンサートで川俣の事務局長の斉藤さんにわざわざお声をかけていただいて勧誘されたのと、水戸の
旧友がステージ手伝いを快諾してくれたので、個人でエントリーして2人で出た。中日9日日曜のトリに近い出演で、ゴールデンタイムのゲストステージが押し
に押したため、午前1時過ぎのステージで、Julio Numhauser の "Todo Cambia" と A. Yupanqui の
"Luna Tucumana"
を歌ってきた。もはや観客もまばらで、当初は観客と一緒に歌うつもりでいたのに、またも寒いステージだった。数人はひびいてくれる人もいたかと思えば、ま
あやることはやったというところか。
地元スタッフの厚いホスピタリティは痛いほど感じたが、多くの出演者からは今回特別なハートを感じなかったというのが、偽らざる感想だ。このイベント
確
実に転換点にきていると思う。
no photo
いまどきの巨悪とは?
ドラマ水戸黄門が終わるらしい。寂しいものだ。痛快娯楽時代劇、いいじゃな
い、わかりやすくて。
今、善悪というのは混乱していて、クリアカットに見えない。近年『鷹の爪団』
とか『天体戦士サンレッド』とか好きで、善悪がひっくりかえったりして笑かしてくれる。正義のヒーロー・サンレッドは社会不適合でヒモ生活、ちんぴらっぽいが根っから悪人でもな
い。悪の組織フロシャイムのヴァンプ将軍はカリスマ主夫で社会過剰適応。怪人達もバイトなどしながら社会人生活にしっかり適応している。妙に面白い。こう
いう設定、昭和の昔にはなかったように思う。
こんな状況になってもしおらしくしている、日本人、なんと巧みに調教されてし
まっていることか。こんな産業消費人間に調教されてしまっていることに、もっと怒れよ!と思う。当面の悪は嘘をついて情報を隠
したすべてのヤツらだろう。でも巨悪はその先にありそうだ。見え
ないもの、自分の足元も見なくてはならない。
'11 10.17
岩手再訪

大船渡市門野浜
先週末、往復夜駆けで沿岸にも足を運んだ。今回は1人でバイク(R100RT)。17
-8年ぶりの南三陸の青黒い海。気仙沼港から旧道で陸前高田、大船渡へ、津波の跡に言葉を失う。
大船渡市末崎の40年来知り合いの漁師宅にちょっと立ち寄った。とうに亡くなった大爺様によく昔の津波の話を聞かされたのを思い出す。海の人たちはたく
ましく生きていた。少しホッとした。
国道107号で内陸に移動、RT本領発揮の岩手の道。宮守から花巻、沢内へ。
沢内の増田邸でゆっくり話して、泊まるつもりでいたが、翌日の関東の猛暑と渋滞をさけてどしゃ降りの夜中に帰路についた。
会って話をしたい人はたくさんいるのだけれど、また出かけることにしよう。
'11 9.24
もはや謙虚さしかない
いつまでも貧乏やっていると、これでよかったのか?と思うこともあ
る。いままで条件の悪い場所でそれなりにやってきた自信はあったけれ
ど、今の仕事の立地・デザイン・運営をあやまったんじゃないかと・・・。
日常診療で、わがままな患者やわけのわからん患者、どうも嫌いな患者ばかりに思うこともある。それでも口コミでコンスタントに新患もあるし、昔からの患
者さんや新規のお得
意患者さまもいるわけで。変に患者をひっぱるようなことは一切しないで、欲をはらず、自分流をくずさずになんとか成り立っているのだから、よしとすべき
か。総合診療はスキマみたいなとこあるし。一歩引いて傾聴に徹すること、(昔からあまりに月並みでありふれた言い草だが)できる範囲でそう心がけること
か。
腹の立つことであふれたこの世で、戦術的にも、残された道はもはや謙虚さしかないのではないか。(いろいろこまごま思うこと、考えることはあるが、独言
で文章化しづらい・・・。)
音楽の友人たち
5月ころからあちこちの友人に誘われて、いくつかのイベントに参加したり、聴いてきたりして、だいぶ元気になりました。ありがとう。
7/17五霞町の夕焼けコンサートは、25年ぶりくらいで、飛び入り出演させてもらいました。その場で川俣コスキンの事務局長の斉藤さんからお声がけい
ただき、いろいろお話できてよかったです。さんざん迷っていた川俣コスキン、今年は1人でエントリーすることにしました。
'11 7.31
アナログあなどれない
震災前に今では貴重なLP引っぱり出して、デジタル録音してみた。忘れていたアナログ、なかなか音がイイ。
40年も前のカセットテープ、まだちゃんと聴ける。ラジカセとかデッキも少し調整修理すればほとんど復調して動いてくれる。しっかりした機械だとかなり
イイ音だ。デジタル化した音源データは今後どのくらいもってくれるのか、フォーマットがどうなっていくのか、とても心配。メジャーなものはいいけど、マイ
ナーなものは特に。
最近は夜のラジオはMBS以外、短波の「しおかぜ」なども聴いている。こういう放送はアナログならではだろう。ネットの存在で確実に世界は変わっていく
のだろうが、アナログラジオ放送はライフラインとして必要だと思う。簡易な受信機で場合によっては国境を越え、たとえ高度なインフラがダウンしても成り立
つわけで、変なデジタル化やフォーマット変更はしないで欲しい。テレビはデジタル化したけれど、わずかなエンターテイメント以外、もうあてにはしていな
い。
'11 7.25
あのイヤな感じ
全国ネットのマスコミで露出してた「原子力村」人のもの言いのあのイヤな感じ、どこかで見たと思っていたら、「学校教育ムラ」のあの強烈にイヤな感じと
どこか似ている、いや同根に思える。
あの業界は極力遠ざけていた。ところがつい最近、学校医の仕事中に久々にあのテと遭遇してしまい、ド〜ッと疲れてしまった。
心のささくれ
で、10数年前のその業界との関わりでは(思い出したくもないが、絶対忘れないぞと当時思った)心にじつに多くのささくれができた。それらがその後トゲ
になって、ハリネズミのように生きてきたように思う。自分の(ときに他人の)トゲに嫌気がさして、トゲのない人になりたいと自省もするが、まだ時間がかか
るだろう。
小出先生の壮絶な生き様や、ひとにぎりの真摯な友人たちの生き様がそんなことを思わせる。
'11 5.29
ジャンクラジオ
気分転換に手持ちのジャンクラジオのレストアなどしている。最近はかなり手強いSONY
ICF500とICF110などを復活修理した。'60年代製品は気合いが違う。ついでに、こういうモノはやはり弱電メーカー製の方が気合いの入り方、デ
ザイン、使い勝手がいいように思える。
そんなんでMBS、毎日聴いてます。
小出裕章先生に関してはこんなブログ発見: http://hiroakikoide.wordpress.com
「がんばりすぎないでね」
桑田さんのコラボ曲でこんなコトバが入っていた。とてもマトモだと思う。「がんばらない」じゃ某◯田センセイだし、違う、そうじゃない。
あと「希望」というようなことごとも押しつけだけはやめてくれ!。
'11 5.11
ラ
ディカルに思考すべし
たいへんな転機がきた。ラディカルな思考しかない。旧知の友人たちとこれからの話がしたい。
'11 4.13
過剰
震災以降、エネルギー過剰消費について普通に語られるようになった。まっとうなことだ。
なんと過剰なものが多いことか。
(無駄な)情報が過剰、(無駄な)コトバが過剰、無駄な敬語が過剰でさっぱりわかんねぇ記者会見・・・。で肝心な情報は???。
「安全です」、「心配ありません」が過剰。さっぱりわかんねぇ、根拠がねぇ。
感情が過剰、同情が過剰で何でも知ってる風のキャスターのしたり顔など見たくもねぇ。
がんばれが過剰、他に言いようはないのか?(ないよなぁ・・・)、こっちまで鬱になる。
がんばれSongs
いままでめったにかからなかった、忘れられていたような「がんばれSongs」がやたらとメディアに流れるようになった。密かに大好き
だった曲も多々あったり
もするのだけれど、こう意図的に取り上げられると、もうやめてくれ〜、かんべんしてくれ〜と思う。
ついでに、あれだけ好きだった音楽が今全く休止状態、完璧スイッチオフ。CD音源すら一切聴きたくない。演る気もおきない。
震災ラジオ
震災直後はNHKラジオで一般情報とIBS茨城放送、栃木放送で地元ライフライン情報などを得ていた。
原発爆発事故以降は必要な情報はマスコミでは全く得られず、「さっぱりわかんねぇ」状態で、全然あてにしていなかった。先日たまたまMBS大阪毎日放送
を聴いたらこんな番組をやっていた。このプロデューシングは国内マスコミ唯一、卓見だ。小出裕章先生、よく解る。
RCサクセション "COVERS"
発売当初身の回りで持っていたのは自分と同僚のS君だけだった。
キヨシローさん生きてたら何を語るだろうか。
'11 4.8
現
況 '11 3 17
地震で自宅、クリニックはほとんど被害なし。現在通常診療しているが、今後停電時にあっては診療不可。
三和古民家は一部損壊あるものの、居住可。
ガソリン入手困難にて往診以外自転車生活。
沢内の雪
子どもに沢内の雪を見せたいと思い(本当はsnow drive
と自分の気分転換が目的)、一泊で行ってきました。路面はほとんど雪はなく、雪壁もさほどでなく・・・。でも今回は知己の沢内の洋君や胆沢の清水先生と
ゆっくり話できたのでよかった。
'11 3.1
ごぶさた
最近コンピューターは子どもたちがもっぱら使っているんで、全然更新できません。とりあえず元気にやってます。
最近ではクルマ関係の新しい友人もできたりして、古いクルマのメンテなどもチマチマやってました。20年乗ったRXRもそろそろなので、今年はなんかク
ルマか
な?。自転車もネ。↓乗ってるクルマ、乗ってたクルマ(実は激濃いスバリスト。でも今乗りたいのはジムニーだったり)
http://www.youtube.com/watch?v=j1ED_3nHmjc
http://www.youtube.com/watch?v=9CZxfyXG5UU&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=Wi7HGIpKdeM&feature=fvw
http://www.youtube.com/watch?v=j_96Vca009E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=HcdkO17dkkQ&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=2MLCnCyJkxc&feature=related
'11 3.1
川俣コスキン
今年も長女とのデュオ 'Ala Nueva'
で出演しました。ウケなど考えずそれぞれ好きな曲をやろうということで、私は"Sapo Cancionero"、長女は"Zamba De Mi
Esperaza"をそれぞれが歌ってきました。懲りずにZambaのみです。踊りは別にして、zambaを演る人はほぼ皆無です。さびしい限りで、自分
は川俣はとても場違いな気がするほどですが、自分がやるしかなかんべえーと思ってます。
初日10/9(土)夕方、絹蔵サブステージでダンサ・エレンシアとデュオ・マティスの皆様とオープニングの踊りのステージから盛り上がりました。
10日(日)は朝から楽屋入りして友人たちのリハやステージを見ながら、夕方は外で自然発生チャカレーラ大会になって、その後は私はzamba流しのオ
ヤジ状態で、アルゼンチンのバイラリン(踊り手)の皆さんやほぼ初対面の演奏家の皆さんと一緒に、エンドレスで歌ってました↓(一番楽しかった)。
本番出番は深夜になり、さらりとあっけなく(本ステージの画像ありません、泣)。何年ぶりかでフィナーレまでいました。
最近は音楽のモチベーションはかなり落ちていて、川俣も長女に背中を押されてという感じでした。今年は友人たちのおかげで貴重な経験ができました。あり
がとう。
自分は人に聞かすつもりもないし、古いzambaのひとふしでも、さらりと口ずさめればいいやと思っています。
'10 10.31
Otro Lado Del Rio (川の向こう側)
この映画『いのちの作法』を観ていて、障害者/児のことも出てくる
ので、思ったのだが、石川先生や増田先生はじめ、村で出会い薫陶を受け
た人物はみな、「川
の向こう側」に渡れた人たちじゃなかったか。
映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』で若いエルネスト・ゲバラがアマゾン川を泳いで渡って、向こう岸のハンセン氏病患者居留区に行く。エンディング
で使われるオリジナルソングが "El Otro Lado Del Rio"
だ。川の向こう側、北と南のメタファーとしては大変に解りやすい。今日的には北/南は産業的/非産業的と読んだ方が正確だろう。
自分は沢内在村時はまだ川の向こう側に渡りきっていなかった。川の向こう側という経験をしたのは、子どもが学校を拒否してからだ。簡単にいうと当事者の
側に立たされたということ。川のこちら側は圧倒的に学校化され閉塞した社会で、向こう側は学校に行かないことを選ぶ生き方とでも言おうか。
そのうえでいろいろ経験すると、諸々の業界をはじめ、「同じ土俵にいるつもりでも、なんというか微妙な上から目線」みたいなのが非常に不快だったことが
多い。
この点で考えるとやや整理できる。
'10 8.2
沢内訪問
2年ぶりに沢内訪問しました。1泊のとんぼ帰りです。増田先生夫妻も大変な様子は電話で伺っていましたが、お元気そうで安心しました。
緑陰診療所待ち合い室(銀河高原内の新診療所です。私の長女の折り紙と私のケシツボス
ピーカーがあります。)
私個人は近年は沢内を訪れることで、何と言うか、かなりのパワーを貰っています。生きるモチベーションとでも言いましょうか。自分のアイデンティティー
の過半は彼の地に関わっているかと思っています。
今回は沢内で最も尊敬する人の一人、照井富太翁にお会いしてきました。これからも歴史の生き証人としてバリバリ活動してください。
ドキュメンタリー映画『いのちの作法』のDVDを頂戴してきました。制作時から村の友人からいろいろ伺ってはいたのですが、いまひとつピンとこなくて、
今まで観ずにきてしまいました。
http://inochi-film.main.jp/index.html
富太さんや深沢久子さんたち(生命行政の現場当事者)にちゃんとインタビューしていること、故石川敬次郎先生
について触れていることは眉目です。小児科医 石川敬次郎先生は医者のなかで私が最大に尊敬する数少ない人物です。沢内の小児保健は40年にわたり一手に
引き受
けておられたはずです。私は在村時小児検診の類はやった記憶がありません。石川先生のおかげで、他の仕事に専念できたわけです。
映画は生命行政のその後としては本筋でいまひとつ腑に落ちない点もありますが、現状をポジティブに見るとこういう形になるのは解ります。ドキュメンタ
リーとして極力偏りを少なく、複眼で見るに耐えるよう心がけているのを感じました。
'10 7.30
『いのちの山河』試写会
複数の患者さんの紹介で、当地での試写会に招待され拝見してきました。ありがとうございました。
のっけから今は亡き知己の実名が出るたびに涙ぐんでしまいました。30年ちかく前に初めて沢内を訪れてから15-6年前に彼の地に暮らすまで、幾多の薫
陶を受けた人物の多くが
鬼籍にはいられています。
感想をいくつか・・・
まず、映画の方向性はそのスジのものであるからよしとしても、であるならなおのこと、深沢復員直後の斉藤龍雄医師・アヤ医師との交流に触れていない点が
ややさび
しい。
深沢のやり残しが「村の貧困対策」という読みはどこから出たものか、大いに興味ある。
沢内の雪のもの凄さが映像上で十分表現されていない。もっと凄いこった・・・。
エンディングの帯の協力者名を見て、制作者が村のどういう人物に取材したか見当つく。本も『村長ありき』の範疇ではあるが、細かいところで著書にない場
面
もあったように思う。深沢研究を続けている研究者のみなさまや、今までお会いしたジャーナリスト各氏、あるいは村の友人達はどういう感想をお持ちだろう
か?。
http://www.cinema-indies.co.jp/aozora2/index.php
しかし、私が沢内を去って以後この15年ほどで、日常のライフスタイルはずいぶん変わったものだとつくづく思う。ケイタイやネットショッピングがあたり
ま
えになった。情報に関しては地域格差は少なくなったのかもしれない。写真や音楽媒体も転換した。(過多な情報は混乱を生じるということをどこかで読んだ記
憶がある。便利さや過剰なものはものごとの価値をおとしめてしまうように思える。)
落ち着いてみて、20年以上前の劇団銅鑼の『燃える雪』(大峰順二脚本/知己)全国公演を思い出した。当時信州で観た。あの会場/客席の雰囲気の熱さは
今と全く違っていた・・・。当時の友人達とゆっくり話をしたい。
'10 5.18
昭和国産B/C級ギター(信州産限定)
最近ネットオークションをのぞいていて、国産のギターのジャンクをいくつかいじっている。
自分の初ギターは中学生の頃、なぜか家にあった諏訪全音製の「ガットギター」で、数年してブリッジがはがれて、自分で補修してみたが、結局だめだった。
学生時代以降長年過ごした信州には当時ギター工房が多々あった。なんだか懐かしい信州のあの乾いた空気が宿っている気がして、信州製限定で入手してい
る。貧乏人のこづかいでは送料もばかにならないので、グレードも程度も推して知るべしなんだけど、なかなか楽しい。いずれ画像up
しかし、己の腕についてはギターも歌もさっぱり芽が出ない。もうあきらめている。
『こだわり』ということ
開業前だから4-5年も前のこと、団塊世代の大学の先輩らと酒席で話をしていてえらくかみあわないことがあった。私はそれまでの経験で常々「変なこだわ
り
は捨てていこう」
と思ってきたのだが、先輩達には全く伝わらなかったようだ。「自分のこだわりは何より大事だ・・・」というようなことを強烈に説教されて目が点状態になっ
た。つまらんことで説教・講釈されて、自分としては珍しく甚だ腹が立ったことがあった。
確かに自分には人には譲れないスタンスは人一倍あるし、不可侵の領域もある、もしかしたら地雷(?・爆笑)もあるのかもしれない。今多くのことごとは善
悪
/倫理の価値が薄れてしまっていて、好き-嫌いのベクトルしか無くなってしまったように思う。昔は『こだわり』というと何かポジティブな価値が付いて語ら
れたんだろうと思うが、今となっては『こだわり』などというのはただの好みレベルでの偏狭なヲタ言葉でしかない。こういう言葉は使わずに生きていこう。
風呂に入っていて、ふとそんな苦い経験を思い出してしまった。
仕事のこと、子どもたちのこと、音楽のこと、その他のことも共通して言えると思う。今いちばんしっくりきてるのは水戸の音楽友達のおねえさまが言ってた
「音楽ジャンルや国・地方にこだわらずに好きな曲を好きに演じたい」というスタンスかな。自然体というか、力を抜いて。・・・自分にはとてもありがたい言
葉
でした。
'10 2.23
新年はラジオで言祝ぐ
ラジオってなんか好きやねぇー。
昔ちょっとラジオ少年だった。自分はもうトランジスター世代だけれど、小学4年くらいからラジオのキットをつくったり、家の物置で眠っていた並四と
か五球スーパーをぶっ壊したりした。
うちの五球スーパーでも夜になると中波帯もびっしり放送がひしめき、国内遠距離はもとより、外国の放送も聞こえる。短波帯は海外放送ばかりでなく、モー
ルス信号やらよくわからん信号がびっしりひしめいていた。それがなんとも魅力的だった。
幼少時家にはFMラジオは無くて、近所の床屋のBGMがFM東京で、上品な大人の世界だな〜と思った。小学5-6年でFMラジ
カセ
を買って、いつもラジオと一緒だった。
中学生になると深夜放送も聴くようになった。宵の口でも15分枠くらいで今大人が聴いてもいいような素敵な
番組がならんでいた。ラジオは大人の世界の窓だったように思う。
高校時代は深夜放送のみならず、早朝3時からのトラッカー向け番組や、ローカル局のパーソナリティー番組を楽しみ
にしたりした(KBS京都とか東北放送とか・・・)。
高校1-2年でフォルクローレ好きになり、NHK-FMの谷川越二さんの「世界の音楽」は定番だった。ほどなくIBS茨城放送の飯田利夫さんの「ラテ
ン・フォルクローレをごいっしょに」と出会い、今でも親交が続いている。
大学は松本で、当時長野県に民放FMはまだなかった。アパートに住んだ一時期だけ有線放送の漏洩電波でFM東京が聴けたことがあり、とても嬉しかっ
た。時
報の「FM東京」のアナウンスにたいへん郷愁を感じた。
卒業後佐久時代にはFM長野ができ、午前0時の「ジェットストリーム」が聴けるようになった。城達也さんの名番組でございます。
平成になって長女が生まれて、岩手の沢内村に住んだ。この時期アマチュア無線を始め、HFにも親しみ、唯一RAE(アルゼンチン国営放送)に受信報告を
送り、半年くらいして担当の高木さんからお手紙とベリカードが届いた。以後幾度かお手紙のやりとりがあった。沢内の静かな夜、ラジオや受信機(HF無線機
が主)に向かうのは、今思うと素敵な時間だった。
十数年前関東に戻ってきて、民放FMの多局化には驚いた。でも似たりよったりで、もっと個性が欲しい。どこもしゃべりがやたら多す
ぎ!。IBSも県西放送局ができて格段受信しやすくなっていた。ジェットストリーム伊
武
雅刀さんもデスラーっぽくて好きだった。
最近 BCLが復活ブームなの??。ネットオークションではBCLラジオにいい値がついててびっくりだ。あのテはリサイクル屋でタダ同然だったの
に・・・
思いっきり昔話になってしまいました。やっぱりラジオ好き。
'10 1.1
初期ラジカセ -昭和オブジェ-
'70年代オブジェの古いラジカセのジャンクをいくつか再生して遊んでいる。
初期ラジカセは造りがイイなと思うこともあり、またいかにも子どもウケの機能やデザインだなーと思うのも多い。なかなか洗練されたデザインもあれば、
かなりエグいものもある。当時ものはおもしろい。
今やカセットは無用の長物だし、ラジオは単体ラジオの
方が具合よいことが多い。BCLラジオのやっかいな操作をあえて楽しむか、マジで短波聴くならアマチュア無線のHFトランシーバーでキマリ。
FMだと音質はステレオ
レシーバー/チューナーにはかなわない(BOSE
AW-1てのもあるが・・・)。
自分にとってラジカセの標準はモノラルで2バンドないし3バン
ドの中型機というところ(アナログメーターとダイアルライトがあると妙に嬉しい)。
'60年代ラジオ
'70年代のなんか無駄の多いデザインに対して、'60年代モノのデザインは秀逸なことが多い。これはカメラでもクルマでも感じる。シンプル
で渋めのデザインが吉。
学生時代の昔からリサイクル屋等で結構いろいろなラジオ/ラジカセのガラクタと出会ってきた。それぞれ特色あり、思い出もある。ほとんどは引っ越しや大
掃除、最近は貧乏でジャンクとして処分してきたが、またいじってみたい機械もある。
ステレオレシーバー
レシーバー、好き。ラジカセとは対照的に大人の道具って雰囲気。アメちゃんドラマで中流家庭のリビングにさりげなくある日本製レシーバーってイメー
ジ?。
普段使いにでかいアンプはいらないの。レシーバーで十分。
昭和の学生時代にリサイクル屋で2千円だかで買ったトリオのレシーバーも元気です。おうちでFMやCD聴くならデカラジカセよりレシーバー。
'09 12.5
開業医-対-勤務医ロジック
楽して儲けている開業医と過酷な勤務医という対立図式は厚生官僚と
マスコミがつるんでの昔の医師会叩きの作戦だったのだろうが、もううん
ざりだ。
開業医は経営者、勤務医の多くは中間管理職/労働者。何を基準に<収入>を比較しているのか?。ちゃんと見てもらいたい。
開業医の経営はどこもギリギリのはず。公立医療機関とちがうのは人件費をギリギリ削って成り立っているということ。
診療内容に関しては、どちらが良心的というのはもはやあまりないと思う。あくどい開業医もいるだろうが、あくどい病院もあるだろうし、公的医療機関でも
「これでいいのか」「何じゃこりゃ」と思う診療してるとこもある。そもそも同じ点数表で請求してるのだから、個人開業の施設を叩く理由は何か?。
良心的な診療をして良心的な労務管理をして良心的な経営をしていたら、こんな診療報酬体系では食えない。うちは食えない。
勤務医の大変さは労働基本法とか労働災害とか精度管理/危機管理の経営上の大問題じゃないのか。
私は勤務医から貧乏開業医になったわけだが、自分にはもはやこれしか選択肢はなかった。勤務医の人生設計において反-開業医言説は自分の首をしめること
でしかない。
'09 11.12
森の診療所の終の
医療
久しぶりに岩手の増田進先生の本が出ました。沢内以降、田老町病院長から現在の緑陰診療所(自由診療)開業にいたる経過がわかりやすい語
り口で書かれています。
沢内方式も今や伝説!、地域医療のひな形というのはとっくに消失したと言ってもいいくらいですが、地域医療の最右翼増田進先生の現在がようやく世に出ま
した。
サイン本を送っていただきましたが、クリニックにも置いています。沢内をご存知の患者さんに請われてお譲りもしました。私の外来も最近は増田流で鍼-整
形が過半になっていますが、一般内科、小児、在宅も織り交ぜ、実に多彩です(結構疲れます)。
ちなみに増田先生はM.Sosaと同い年です。
http://shop.kodansha.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2157756&x=B
Mercedes Sosa 訃報
10/4の 'La Negra' Mercedes Sosa の訃報は信州の友人からの電話で知った。この夏DVD
"Cantora" を観て、どうもこりゃあM. Sosaの遺言企画みたいだと感じていた。また医者の目で見ると健康状態はかなり心配だった。
訃報に接しても驚きはなかったのだけれども、感慨は深い。不世出の歌い手、最も尊敬する人の一人、巨星が逝ってしまった思いだ。
ユパンキをはじめ世界中のアーティストで録音をほぼコンプリートしているのはソーサただ一人だと思う。私はマニアやコレクターでないし貧乏なので、よほ
ど好きなアーティストでもコンプリートはしない。ソーサ不遇の80年代前半は本当に日本に録音が入ってこなかった。その頃の曲がひときわ好きだったりす
る。
ソーサ追悼の代表曲は本国では "Luna Tucumana" か、国際的には "Gracias A La Vida" か、日本人好みでは
"Alfonsina Y El Mar" とか・・・。私にとってはどれでもなくて、他に沢山ありすぎる。映画 "CHE" で使われた
"Balderrama"
は昔から大好きな曲だったが、あの強烈なエンディングで使われてから、自分で歌う気になれなくなった。それはともかく、老Mercedesにいいはなむけ
になったかもしれない。ソーサの数多の歌のなかで"Hasta La Victoria" や "Zamba Para No Morir"
じゃなくて、敢えてゲバラと脈絡のない "Balderrama" なのは映画製作者の意図で、それはわからなくもない。
自分にとって30年間でいろいろ辛い時期を支えてくれた多くの歌がある。
16-7歳の頃からずっと傍らに生きてきたメルセデスの歌声が途絶えたことに、大げさに言うと時代の転換を感じる。
今年は長女がつきあってくれて、Duo "Ala Nueva" として初舞台で出場。懲りずに大好きなZambaを2曲
(Cuando
Llegue El Alba / Zamba De Usted)。de
ustedは新潟の多田さんの和訳詞を半分、瀬賀倫夫さん追悼の意で選曲した。
相変わらずアルゼンチンものはマイナーだけれど、日本のフォールクローレシーンも少し風向きが変わってきたような気がしなくも・・・ないか。
'09 10.20
PCまたぶっ壊れ
iBookまたぶっ壊れ(怒!)以前の修理代がゲロ高かったので。安いMacBookを導入した(かなり痛い!)。ソフトの関係でずっと
更新できず申し訳ない(泣)。
ついでに最近は日記と趣味の音楽ソフト、カメラ管理のみに使っていたオールドマックもHDクラッシュ!。B-upしていた趣味関係はすべてデータセーフ
だったが、日記の1年9ヶ月分ものデータが失われてしまった。他愛もない代物だけど、とても悲しい。昭和オヤジはデジタルものはどうも信用ならん。こまめ
なB-upも苦手。
この1年ちょっと、いろいろあったなぁー。まあ前を向いて生きていきましょ。
'09 10.12
LOS KJARKAS 練馬公演
'80年代一世を風靡したカルカスが18年ぶりに来日。私は'85と'87のツアー以来なので22年ぶりだった。
カルカス好きだった友人たちの多くは、今回の日本ツアーは行こうか行くまいか迷っていたようだ。私もそうだが、行って良かったと思う。
'80年代初頭に初めて聴いたカルカスはボリビア音楽の中で斬新なスタイルを開拓していたが、自分にはヌエバ・カンシオンとは異なるカルカスのメッセー
ジが直球/ストレートで入ってきた。
学生時代終わりの'85~87頃は自分の人生・将来の(沢内村で仕事をする)決心をするのに、カルカスのゴンサロやウリーセスの詞の存在は外せない。そ
れはあこがれレベルであったと自分でも思うし、甘い、軽いなどとのたまう御仁も当時いたもんだ。
それでも "Sol De Los Andes" "Pueblos Perdidos" "Por Un Mundo Nuevo"
等にはかなり背中を押されたような気がする。
'85カルカス初の日本ツアーの開幕はつくば万博茨城パビリオンのステージだった。その前座で地元アマチュアグループ数組が2曲づつ演奏したなかで、私の
グループはVictor Jara の "La Partida" とあろうことかカルカスの古い歌 "Ella Es"
をやった。以降彼らは来日ステージではこの曲をやってくれる。そして今回も、ありがたいことだ。
'92?年のウリーセスの訃報はある意味ユパンキやカフルーネの訃報よりショッキングだったと思う。以降カルカスを封印したというファンも多いだろう
が、私は殺人的な多忙さで音楽全般から遠ざかっていた。それ以降は、ボリビアのネオ・フォルクローレはほとんど聴かなくなり、限られたアーティストの限ら
れた形式/演奏しか聴かない。アルゼンチンものも'70年代に聴いたほどのときめきは感じなくなり、古めの音源やカバーものなどを聴いてきた。
後日、'80年代に熱烈なファンだった従姉妹と電話で話したら彼女は松戸のステージに行き、ウリーセスの不在を強烈に感じたという。私は新し
い曲にそれを感じた。
20年たって変わらないほうがおかしい("Todo Cambia"
ではないが)。でもElmerの美声は健在だし、Gastonの声も笛もすばらしいままだ。若いメンバーもがっちりイイ仕事してる。聴衆もイイ雰囲気で全
体素敵なステージだったと思う。
私は「長い人生いろいろ大変なことはあったけど、明日からまた元気だして生きていきましょう」というメッセージをもらった気がする。熱しやすく冷めやす
い自分だが、まああるがままでいいのだろう。
'... Sapo cancionero, canta tu cancion...' というのが身に沁みて好きだ。
'09 6.17
訃報キヨシロー
自転車オヤジの星キヨシローが逝ってしまった。昨年はアルゼンチンフォルクローレの星、瀬賀ミチオが逝ってしまった。また、自転車友人の
Oさんも逝ってしまった。皆愛煙家で癌だった。
いままで人生の師と呼べるような年上の友人は皆愛煙家だった。最近は喫煙者のキャラというのもちょっと解ってはきたが、愛すべき友人たちが確実にいた
が、いなくなってしまった。
とりあえず自分は禁煙ほぼ続けている。しかし、精神的依存はなかなか断ち切れない。時折シガーとかシガリージョ(葉巻)が無性に吸いたくなる。
'09 5.10
フォルクローレ・フェスティバル 加須市 4/19
昨年末から親交しているFumaさんファミリー/チャカレーラ塾主催のイベントに参加させてもらいました。
proyecto
fumande_チャカレーラ塾
出し物では自分はのっけからチャカレーラ、ガトのボンボで目立ってしまい、サンバ2曲のギター/ボーカルはヨレヨレ(泣)。己の実力の程度とあがり性が
悲しい。気持ちだけでは音楽はできない・・・。皆様ご迷惑をおかけしました。
当サイトのフォルクローレのページ、更新できずす
みません、もう少し考えまとまるまで時間ください。
LINK
Proyecto fumande
アルゼンチンフォルクローレをはじめ日本の中南米音楽の生き字引。熱く優しき研究家・マルチプレイヤー・バイラリン・プロデューサー、Fumaさんこと小
林さん一家です。お世話になります。
ギタリ
スト 智詠 Chiei
暖かくも凛とした新進気鋭の汎ラテンマルチギタリスト。
'09 4.26