25年の徒然
1)初心(遥かな昔)
医者を志したのは高校2年のころだったと思う。漠然と僻地の医者、田舎の医者になりたいと思った。岩波新書の『自分たちで生命を守った村』や『村で病気
とたたかう』(若月俊一)は読んでいたが、沢内や佐久で仕事をするまでは考えていなかった。幼稚なヒューマニズムで人の役にたちたいと考えていたように思
う。
家は貧乏な方で両親は共働きの勤め人だったので、進学の選択肢は学費免除の自治医大か安い国公立だった。自治医大は二次試験の最終面接まで行ったが、不
合格で1浪した。以後面接嫌いになった。2年目は二次試験で面接のない信州大医学部に合格した。今思うと学費免除でも卒後の縛りのある自治でなくて良かっ
たと思うし、当時両親もそう思っていたようだ。
2)医学生時代(遠い昔)
'81年信州大学医学部に入学して教養部進学過程2年を過ごした。やはり一番大きな出会いは同年教養部助教授に赴任された山本哲士先生の信大で最初の社
会学講義だった。「病院が病気をつくっている」と始まった先生の講義は、自分の幼稚なヒューマニズムをひっくり返した。
山本先生の研究室に何度か伺ったことはあるが、ゼミ生ではなかった。山本先生はある面厳しいかたで、不勉強な自分はついて行けない存在だった。
入学後おそらくセツルメント活動の流れを汲む文系のサークルで地域医療グループに入り、主に長野県内の病院・診療所を見学したり、夏には検診のお手伝い
で県下
の山間地に行った。昔ながらの暮らしをしているお宅を訪問して、いろりで焼いた本物の「おやき」をいただいたりした。
長野は日本のドイツ人(理屈っぽい)とか言われるように、人心の進んだ土地だと思う。一方、北関東の田舎はいまだに封建的とさえ形容できるような精神風
土がある。
'80年代の大学キャンパスは平和なもので、旧左翼系の人たちが若干いたが、自分にはもはや無縁だった。1年生のころはその手からしつこくされた ことがあったが拒絶した。説伏して組織化するようなやり方は宗教そのものだ。
当時の大学生は夏はテニス・冬はスキーという軟派な時代だったが、貧乏だったので貰い物のスキーでおつきあい程度しかやらなかった。
3年目は無事に専門課程に進級したが、基礎医学の講義でどうにも嫌いなのがあって、3年目の「学1」を2回やった。基礎の教官には上品で人格も仕事も尊
敬できる人もいたが、そうでないのもいて、「あんたら何のために何の仕事してるの?」と当時思った。大学医学部は「大学」ではない、選択の全くない階段式
カリキュラムの
「学校」にすぎない。
2回目の学1では留年生というプレッシャーはあったが、結構いろいろなことをやった。
山本ゼミの秀才T君や医学部上級生のNさんたちとイバン・イリイチの "MEDICAL NEMESIS"
英語版を読んだ。これは貴重な経験だった。このメンバーで夏の「医学生ゼミナール」(民青系の全国イベントで、別に賛同するわけではないが、たまたま信州
大に回ってきた)で一コマぶちあげようということになった。沖縄のユタ研究グループを紹介してもらい、ユタの治療行為と現代医学を比較しようという企画に
なった。沖縄の学生はユタを有用な治療行為としてポジティブに、我々は現代医学も宗教であるととらえてかみ合わなかった。北里大学の立川昭二先生を訪れて
アドバイスをいただいた。
夏には同級のI君と沢内病院に実習に行った。テント持参で1週ほど、海外からの研修(JAICAだったか)の人達と一緒の見学が主体だった。増田先生の
外
来、病棟を見せてもらったり、往診についていったり、保健師さん、栄養士さんの訪問・指導に同行したり。歯科の独身の先生の宿舎で飲ませてもらったり、研
修生(確か
メキシコとタイ)さんたちと料理をしたりした。増田先生をはじめ、沢内との個人的おつきあいはこの時からになる(その以前にも訪問はしているが)。
当初は増田先生のような医者にならなってみてもいいと思ったが、何度か足を運ぶうちに、いずれ沢内で仕事をしたいと思うようになった。もちろん増田先生
の
人間的な魅力は大きいが、沢内病院や健康管理課職員の皆さんの凛とした気高さというか非常に良い雰囲気も大きいし、村の人々の明るさというのが当時は確か
にあった。もちろん当時すでに「生命行政」にはひびが入っていたし、増田先生はじめ苦渋の道に入っていたことは重々承知!である。
以後無事に学生時代を過ごしたが、その間も大学はあまり好きになれなかった。大学医学部では心から尊敬できる人と出会えなかった。
卒後は大学を出るつもりでいたが、最終学年の夏休みに佐久総合病院の実習に行った。外科のO先生のグループで、当時国立癌センターから戻られた気鋭のN
先生もいて、仕事ぶりを見せていただいた。N先生が術前の患者説明に同席させてくれたのが大変印象に残っている。外科では最も重い仕事で、大学の臨床実習
では学生はまず同席させてはくれなかった。医学生の実習は当時結構いて、後に同期研修医から循環器内科の専門医になったT君も一緒で、結構気が合い飲ん
だ。
それ以前に大学の麻酔科の臨床実習の時に、ついていた先生が「佐久の外科はレベル高いよー」という話をしてくれたこともあった。
若月先生は当時まだ現役病院長で、すごい人だとは思っていたが、先生が自称されていたように「オールド・マルクス・ボーイ」なのだろうと思った。後に
『信州に上医あり』を書いた南木桂先生士-というより内科のS先生-のようには若月先生自身と佐久病院という組織には惹き付けられなかった。あくまで佐久
は臨床的に
選んだということで、社会的な面ではない。
3)佐久病院時代(とうの昔)
確か医学部最終学年11月頃に面接試験を受け、佐久病院就職が決まった。今でも面接の先生の顔を覚えている。大学入試の時は面接嫌いだったが、今回は初
対面ではないので余裕があった。
無事に国家試験に合格し、研修医生活が始まった。よくわからないが研修医の「組長」に任命された。1年目は当時では珍しいスーパーローテート。また副当
直と称して交代で当直して、病歴とりからいずれ一次救急全てこなすようになる。
多忙な日常のなかで研修医教育に携わってくれた循環器のT先生や整形のM先生はじめ各科の先生には本当に感謝したい。私は外科志望だったので、麻酔科は
じめ、産婦人科のY先生はじめ、泌尿器科のH先生、整形のM部長先生には出身大学が同じというのとは別にしてもよくしていただいたと思う。また、多科の先
生・スタッフと繋がりがあるというのは価値あることだと思う。
当時佐久では在宅医療が全国に先駆けて展開されつつあった。その中心のS先生、I先生には間近でその精神を学ばせてもらった。県下第一の大病院か
ら在宅に出ていたのだ。
研修医二年目は付属小海診療所研修を私は特別2倍の2ヶ月行い、所長のO先生には特別よくしてもらったと思う。有床の総合診療で、胃カメラから鍼治療ま
で指導していただいた。当直で肩関節脱臼整復を行った経験などもした。
ICUの初期研修は隔日で泊まり込みというハードさだったが、高次救急まで対応。当時救急専従Dr.はおらず、内科・外科各持ち回りで他科Dr.がすぐ
コンサルトするというのは独自のスタイルだと思う。
その後外科のスタッフになった。外科はグループ制で消化器外科のOO先生には後年も大変お世話になった。ルーチンは病棟と手術だけでなく、内視鏡や超音
波検査に外来も入るようになり、一般当直からICU当直も入るようになり、下っ端にはキツい日々だった。その上に緊急手術が入ったり、病棟にはターミナル
の患者もいるわけだ。
手技的なことはもちろんだが、医者としての基本マナーとか、すべきこと/してはならないことを学ばせてもらった。外科の厳しさやシビアな面はいやという
ほど身をもって知った。諸先輩には迷惑をかけた不肖な弟子だったと思う。
研修医時代は大学医局に行った友人たちがどんなことをしているか、いつも気にしていた。外科はグループ診療だったのでことさら意識した。
一人で安全に手術はじめ医療行為をするには不測の事態への対応もふくめて一人でできる技術と体勢が絶対に必要と思う。一通りのことができるだけではでき
ると言えない。医療行為は綱渡りではいけない、安全マージンをきちんととること。
佐久時代は臨床を身につけることで精一杯だった。
卒後5年目で沢内に飛び出す決心をした。外科医としては一人前ではない。そろそろ専門を決めてこれからいっぱしの外科医者になっていくという時期
だと思う。外科部長だったNN先生はそれなりに外科医として期待してくれていたかもしれない。多少の迷いと後ろめたさはあったが、自分の初心なので貫い
た。
外科の認定医その他いろいろ認定資格をとっておけばと思ったこともあるが、後悔はない。
故郷のY病院のK院長が大学の大先輩で、身内のOpe.で(手洗いして助手に入った)縁あって知り合い、帰って来ないかとおさそいがあったが同じ理由で
きっぱりお断りした。
4)沢内時代(もはや昔)
沢内病院が大変な状況であることは、しかも状況は難しくなっていることは重々承知だった。学生実習から自分を気にかけてくれた佐久のN先生は「行っても
苦労するだけだぞ」と言ってくれた。しかし以上のように初心からずっと考えていたことなので、「やるなら今しかねぇ〜」と行動した。
前任の内科のT先生が退職されるので、交代で平成4年7月赴任した。長女は1歳だった。スタッフはほとんど顔見知りだったので、自分としてはとうとう来
たかーという思いだった。辞令は内科医師だった。内科外来を担当して、入院患者は増田先生と同時に受け持った。もちろん外科領域もやって、私の赴任を待っ
て全麻の手術を増田先生とやった。腰麻の手術は極力自分一人でやるように増田先生ははからってくれた。
大腸ファイバー、硬膜外麻酔、IVHなどもやった。それまで当たり前に使っていた電気メスがなかったり、腸管の自動縫合器もなかったが、増田流を学ぶつ
もりで、それらなしで仕事した。医師2人で交代で宅直、月1-2土日当直医が盛岡から来てくれていた。重傷者は病院の救急車で搬送、度々同乗した。
維持透析もやり、人間ドックもやっていたのはひとえに看護士はじめスタッフが優秀だったからだ。自分としては沢内流の総合診療を今風に過不足なくやった
自負はある。ただ整形領域は子どもの肘内障整復程度の経験だったので、当時は整形外科の研修に出たかった。増田外来は整形領域外来なので、これはこれで学
ばせていただいた。
総合医の臨床研修について
症例を積むには大病院が手っ取り早いのだろうが、佐久の小海診療所の経験も含めて、小規模施設での研修は存外身に付くと思う。優秀な指導医につけば、場
の大小はある意味関係ない。むしろ大病院で必要なことだけでなく、小病院・診療所で必要なことはまた別に学ぶべきことである。
専門医の寄せ集め、いいとこ取りの総合医はありえない。優秀な総合医の背中を見て自分で学ぶことだと思う。
在宅医療について
佐久時代は在宅にブレークスルーというかオルタネイティブを見ていたように思う。沢内で在宅定期訪問を始めてみたが、患者家族からすれば大きなお世話、
医者の自己満足だったかもしれない。増田先生の無手勝流というか、沢内の「ゾーンでフェンス」で見守っていればよかったのかも知れない。
以降在宅至上の考えを捨てた。入院、入所を含めた選択肢の一つと考えている。本人の意志も大切だが、家族ケアとか地域ケアで考えて、無理は禁物だと思
う。
(高い保険点数つけて医療費抑制のために在宅を誘導するなど破廉恥だ。)
沢内の往診スタイルは押しつけではない在宅医療/ケアも包摂していた。
地域医療について
地域医療のひな形というのが当時いくつかあった。保健・医療・福祉複合施設のあたりからどうも活発な議論がなくなって魅力が失せ、介護保険ができて福祉
の市場化がすすんだ。公的な保健・医療(+福祉)サービスに対して自治体が撤退している。オーナーが「医者が足りない」で済ましている。
沢内システムの崩壊は村が撤退したこと。
オーナーがやる気をなくせば雇われガンマンの医者は去る。場合によっては『真昼の決闘』、石持て追われるのを目の当たりにした。衣食足りて礼節を忘れ
る。
見方を変えると、公的に均一なサービスということと、クライアントの多様化のずれもある。さらにもっと根源的なところで時代が転換している。
医療崩壊の原因は医療費抑制。単純なこと。
医療化
'70年代以降の産業社会批判を受けた論客が地域医療界にあったことは別に前述したが、沈黙してしまった感がある。
例えば風邪で薬をどうするか、抗生剤をどうするかとか注射をどうするかとか、患者によって幅を持って対応すればいいと思う。あまり原理主義的にやらなく
てよいのではと思う。多様なクライアントに自己の規範の範疇で多様に対応するのが医者の仕事だと思う。
当時自分の仕事は「日々患者のヘルシズムと格闘すること」と学会で発言したことがあるが、今もそう思う。医者以上でも未満でもなく、等身大の医者であれ
ばい
いし、自律的医師であればなおいい。医者の仕事は診断と治療。最近10年はそう考えている。
震災の神戸で考えたこと
1週ほど個人ボランティアで灘区灘小避難所に泊まり込んだ。主にAMDAのスタッフと仕事した。皆素敵な人達だった。佐久の大先輩のH先生と初めてお会
いしたりもした。
瓦礫と半壊、無傷の建物が混在する中、コンビニが営業して、貴重な野菜サラダを売っていた。自分らは5-6日生野菜は食べられず、ボランティアスタッフ
が持参した野菜をやっと口にした。あとから聞いた話、救援物資で生鮮野菜が来ていたが、人数分には足りないという理由で学校管理者が倉庫にしまい込み腐ら
せたという、唖然。
自衛隊の炊き出し日の丸弁当たいへんありがとうございました。
避難所診療所の仕事は重傷者の搬出から、訪問しての拾い出し(往診)、検診、予防、介護、住民自治と地域医療半世紀の歴史を1-2週のスパンで再現する
ものだった。
平成7年は体調を崩すに至り、同年11月沢内病院を退職した。人生最大の挫折だったかも知れない。悲しかった。やるだけやった、誰にもできない仕
事をしたと思うようにしたが、最後の夜は増田邸で男泣きしてしまった。沢内を去った後も一人でいると様々思い出して泣いていた。
退職前には様々勧誘もあり、知己を訪ねたりした、生まれて初めて弁護士さんに相談もした。結局佐久病院外科のN先生がどうしても行き場がない時はいつで
も帰ってこいというお言葉に甘える結果になった。本当にありがたかった。
5)佐久に戻って
若月先生以下理解者半分だったが、そうでないもの半分で、正直非常に肩身の狭い思いをした。外科に戻り再びOO先生、T先生、M先生のグループに入った
が、消化器外科医としてはブランクもあり、かなり辛かった。院内では研修医マニュアルの総合医部門など後進に役立てる仕事も考えていた。
たまたま整形外科から応援の依頼があり、副院長S先生の紹介で整形の研修医?となったが、1ヶ月したらスタッフ扱いにされた。10年選手が研修医生活で
大変キツいものだったが大変勉強になった。同時に整形の奥深さ、一般外科とは全く違うシビアさを知った。
外科でやっていくには癌治療か移植、救急が選択肢で、今さら外科に戻る気はなくなった。整形に残って勉強/修行もいいと思ったが、自分の経験をフルに活
かすのはやはり総合診療だろうと考え、次年度は付属小海診療所の仕事を受諾していたが、故郷に求人もあり、様々の理由で退職した。佐久での自分の理解者に
は今でも感謝の念がある。
6)三和町国保診療所
故郷の自宅から15kmの田舎の無床診療所で、自分の初心に近い環境だった。広いがかなりさびれた印象で、そこそこの繰り入れのある会計だった。気負わ
ずじっくりやるつもりで、医者一人での仕事は初めてなのでそれなり緊張したが、優秀なスタッフのおかげで、徐々に業績を上げていった。
自分としては公的機関の診療の質と収入のバランスとホスピタリティーをベストに維持したつもりである。
EBMを系統的に学びたいと思い、自治医科大学地域医療学教室、当時五十嵐教授を訪ねた。聴講生のような形で教室のカンファに数回参加したが、家
庭の事情もあり断念した。
整形の勉強は続けたく、真壁市郡医師会O先生中心の症例検討会に当初参加した。
EBMとNarativeなもの
結論から言うとEvidenceに凝り固まるのはよくない、嫌いだ。統計の正しさは相対的であり、多い少ないはあってもバイアスはあると
読むべきで、相対的な正しさから演繹した言説はいかがわしいと考える。批判的に物事を考察するツールとしては真っ当な方法であると思う。
一方Narativeな方法は医療行為で暫定的にありうると思う。医療行為は今やオープンに批判対象にさらされる状況でもあり、むしろ一定の医師の裁量
は確保されるべきだと考える。Narativeにしがみつくのは論外だが、マニュアル医者にはなりたくない。
往診・看取り
三和時代は結構な数の家での看取りもした。前述のように在宅を誘導するようなことはしなかったので、自然体で看取りをした。もちろん癌の在宅ターミナル
の患者さんも看取ったが、老衰・自然死という今では貴重?な経験を積んだ。これは優秀な看護士のパートナーあってはじめてできること。もちろん休日夜間も
呼び出されれば出動した。
7)学校を拒否する子どもたち
平成9年小学1年の長女が学校に行かなくなった。地元公立校で私も父親も祖父も通った。何があったのかもうさだかでないが、いわゆる学級崩壊のような状
況だったらしい。担任や校長はじめ教員に会いに行っても埒があかず、教育相談所だかも退職教員みたいのが出て来てお話にもならず、何なんだこの業界!-的
カルチャーショック状態だった。子どもが元気ないのは親としてたまらなく切ない。ずっと今も切ない。
登校拒否/不登校ということをどう見て考えて行動するかいろいろあるが、'80年代に山本哲士の講義を聴いて、様々本も読み、医療の世界で自分で考え仕
事してきた当時、学校教育業界の旧態依然とした様は怒りを通り越し呆れるばかりだった。
いろいろ辛酸も嘗めたが、涙は沢内で涸れはてた。
唯一救われたのは地元の親の会だった。
これだけで相当文面を要することなので、ここではこのくらいにするが、人生で最も強烈な経験だと思う。
産業的・学校=教育システムが疲弊していること
日本的学校プラティック(慣習)が膠着していること
こどもの現実が学校から乖離していること
義務教育と通学義務が混同されていること、社会全体において
学校化/影のカリキュラム/根源的独占/逆生産性
オルタネイティブとセルフヘルプ
学校主義/教育主義(-者・人間)
教育心性
依存・共依存
自助団体とNGO・フリースクール・フリースペースからサポート校まで
こどもの居場所デザイン
-というようなことをツラツラ語ることもできる。
うちの子どもたちは皆家で過ごしてきた。フリースクールなんぞ近くには無いから、フリースペースを自分たちで運営もした。三和の古民家を借りたの
はその目的が大きかった。
複数の家族とつながって、対外的には「ホーム・ベイスト・エデュケーションのネットワーク」と言ってきたが、教える/押し付けることはしない。近隣・広
域の多様な人達との多様なつながりで情報交換しながらやってきた(親父は出番ないが)。
親としてこの過去10年のリアリティーはなかなか筆舌に尽くしがたい。また一方、素敵な人達との出会いもあった。
何だかんだ言っても親の理屈は後付けで、子どもたちが先を歩いているものだ。
8)クリニック開業
平成の市町村合併で勤めていた診療所のオーナーが変わり、機構も人事も待遇も納得できず退職を決意した。赴任時からこのようことがあれば即やめると言っ
ていたが、現実になった。もっと早くに開業なり転職なり考えてもよかったことだが、上記の子どものことで精一杯だった。
仕事は順調でそれなりやりがいもあったし、地域の家庭医の仕事と患者さん達に愛着があった。
雇われ所長と自らオーナーというのは全く違うものだ。負債を背負い従業員をかかえる全責任がある。
シャッター通りの立地は不利なのは承知、それでもなんとかやってこれたのは地元の利で感謝。患者に「先生は欲がない」と言われるが、それでいいと思って
いる。